ケラーと私は同じ場所に行ってみた。ヴィルヘルムの訪問から100年を経て、そこはカラマツやマツの林になっていた。夏の終わりとあって、地元住民がキノコやクランベリーを採りにやって来る。氷河の先端は1.5キロ以上も後退していて、そこから見ることはできなかった。
試作品の実験で約4億6000万円
1850年以降、アルプスの氷河は氷の3分の2が失われた。その消失は速まる一方だ。スイスにあるチューリヒ工科大学の雪氷学者マティアス・フスは、氷河がすべて失われる前に、今すぐ温暖化を引き起こす炭素の排出量を大幅に減らさなければならないと訴える。
それに加え、ケラーにはもう一つ考えがあった。氷河の融水を標高の高いところに集めて貯蔵し、氷に戻すというアイデアだ。
友人の雪氷学者で、1994年からモルテラッチ氷河を研究しているハンス・ウルレマンスがさらに踏み込んだ案を出した。融水を氷ではなく雪に変えれば、太陽光の90%以上を反射して夏の間、氷を守ってくれる。氷河の消失が大きい土地でも、全体のわずか10%を雪で覆うだけで、10年後に氷河は前進を始めるという試算だ。単純明快な解決策に二人は小躍りした。
ただ、人工降雪機を使った場合、モルテラッチ氷河を守るためには、毎年約80ヘクタールの広さに厚さ9メートル以上の雪を積もらせなくてはならない。量にして250万トンにもなる。それだけの雪を一般的な降雪機で作るとなると、過大なエネルギーを消費する。
「モルト・アライブ」(モルテラッチ氷河を救え)と命名されたこのプロジェクトのために、ケラーはスイス国内の大学の研究者、ケーブルカー会社、人工雪の製造関連企業バクラー・トップ・トラックに協力を求めた。長さ約1000メートルのホースのような「スノーケーブル」7本を、モルテラッチ氷河の二つの氷堆石(モレーン)の間に渡すのだ。そこより標高の高い場所に融水湖を造り、ケーブルを通って低い方へと流れる水をノズルで噴霧すれば、雪となって氷河に降るという算段だ。電気は一切必要ない。
氷河近くの駐車場で行われた試作品の実験に私も立ち会った。柱を2本立て、その間にノズルが6個付いたスノーケーブルを固定する。最初の雪片が頭にひらりと落ちると、ケラーは目を潤ませた。
ただ、試作品の実験にこぎ着けるだけで約4億6000万円もかかった。スイス政府と銀行、33つの財団から支援を得たが、本格的に実施するとなると、およそ195億円の資金が必要で、自然保護区にトンネルを掘る許可もいる。モルテラッチ氷河に雪を降らせるまで10年はかかってしまいそうだ。その間に氷河はさらに数百メートル後退してしまうだろう。
フスは、温暖化の進行をいくらか楽観的に考えたとしても、モルテラッチ氷河は21世紀末までに消失すると試算し、モルト・アライブをやろうとやるまいと関係ないと主張する。
ケラーも氷河消失までに時間がないことはわかっている。でも「私が死ぬ間際、少なくとも何らかの手立ては試してみたと、子どもや孫に伝えることができます。問題点をあげつらうより、よほどましですよ」と語った。
(文 デニース・ホルビー[ジャーナリスト]、写真 シリル・ジャズベック、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2022年3月号の記事を再構成]