策略は成功し、ハスタインの「死体」は生き返った。彼は司教を殺し、民衆を殺し、仲間たちに「ローマ」の城門を開いた。しかし、それが永遠の都ではないことを知ると、バイキングたちはがっかりして遠い故郷への帰途についたようだという。

高速のバイキング船のイラスト。複雑な構造をしていることがわかる(FERNANDO G. BAPTISTA/NGS)

伝説の中の真実

しかし、ほとんどの歴史家は、バイキングがルーニをローマと勘違いしたという部分や、「トロイの木馬」のような戦術でルーニに入ったという部分は真実ではないと考えている。デュドの年代記は信頼性が低いとされているのだ。剛勇のビョルンの地中海侵攻について言及しているほかの3つの主要な資料は、いずれも12世紀から13世紀のもので、9世紀におきたこの出来事から、かなり後になって書かれている。

ただ、歴史家たちは、剛勇のビョルンが実在したことは信じているし、各地の歴史的文書は、こうした年代記の大まかな記述やバイキングの侵攻ルートは事実に基づいていることを示している。スペインの資料では859年にバイキングの激しい侵入が確認されており、アラブの資料にも、この時期に北アフリカのネコル王国でバイキングの襲撃があったことが記されている。

ノルウェーのオーセベリ墳丘墓に埋められていたバイキング船とともに見つかった副葬品。9世紀初頭に製作された、ドラゴンの頭部がかたどられているもので、オーセベリで見つかった4点のうちの1点。オスロのバイキング船博物館所蔵(WERNER FORMAN ARCHIVE/SCALA, FLORENCE)

858年ころにはフランスのルシヨンの修道院が「ノースマン」に襲撃されているし、歴史家たちはニーム近郊のカマルグでバイキングが冬のキャンプをしていた証拠を見つけている。また、イタリアのピサがバイキングの船団に略奪されたことや、860年の夏から秋にかけてバイキングがフィエーゾレに到達したことを示す資料もある。

地中海がバイキングの襲撃の主要な舞台となることはなかったが、剛勇のビョルンの後継者たちは、彼の足跡をたどることになる。フランスの、のちにノルマンディー地方と呼ばれることになる地域に定住したバイキングは、キリスト教とフランス語を取り入れてノルマン人となったが、バイキングの獰猛さと戦闘力はそのままだった。

ノルマン人は、1066年のイングランド侵攻の前後に、東ローマ帝国から南イタリアを、イスラム教徒からシチリアを奪取した。彼らが建てたノルマン様式の壮大な教会は、バイキングの地中海での冒険を永遠に物語る遺産であり、それより2世紀前に剛勇のビョルンが成し遂げた大胆な航海のなごりだと言える。

12世紀に建設されたシチリア島のモンレアーレ大聖堂の回廊の柱頭には、2人のノルマン人戦士の姿が描かれている(DEA/ALBUM)

(文 ANTONIO RATTI、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年12月18日付]