ハリウッド女優のグレタ・ガルボも、オリエント急行で休暇を楽しんだ。1925年頃撮影(PICTURELUX/THE HOLLYWOOD ARCHIVE/ALAMY)

要人が続々と到着するようになったため、1892年にはコンスタンティノープルに、金角湾を見下ろす壮麗なペラ・パレス・ホテルが開業した。専用の馬車が、シルケジ駅に到着した乗客を直接ホテルに送り届けた。宿泊客の中には、ジャズシンガーのジョセフィーン・ベーカー、トルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク、英国王ジョージ5世、ハリウッド女優のグレタ・ガルボなどがいた。

1931年9月13日、ハンガリー人の連続列車爆破犯シルベステル・マツーシュカが、ブダペストに近いビアトルバージの高架橋を爆破した。そのとき橋を通過していた9両編成のアールベルク・オリエント急行は30メートル下の峡谷に転落し、22人が死亡。120人が負傷した(MARY EVANS/AGE FOTOSTOCK)

勝利と苦境

快適さと最先端の技術を誇ったオリエント急行も、トラブルと無縁ではなかった。深刻な事故も起こしている。雪で立ち往生したときなど、乗客は寒さのため服を着こんで眠り、乗務員は雪の中を何キロも歩いて食材を買いに行かなければならなかった。

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、列車の旅どころではなくなった。ヨーロッパ中の鉄道は、兵士や配給品、物資を運ぶために徴用された。統合されたヨーロッパを鉄道で結ぶというナゲルマケールスの理想もむなしく、戦争中はオリエント急行は運休に追い込まれ、1918年まで再開されることはなかった。

1906年に、スイスからイタリアへ抜けるシンプロントンネルが完成すると、1919年にシンプロン・オリエント急行という代替路線が開通した。ドイツを通ることなく、アルプス山脈を越えて、パリからローザンヌ、ミラノ、ベネチア、トリエステを通過し、ベオグラードで元の路線に接続した。

1906年に完成したシンプロントンネルのおかげで、1919年にドイツを迂回するオリエント急行の代替路線が開通した(BRIDGEMAN/ACI)

1920年代に、オリエント急行は新たな車両で復活した。再び贅沢の象徴として、有名人や貴族、その他の裕福な人々が利用するようになった。1930年に第3の路線であるアールベルク・オリエント急行が開通すると、栄光はさらに輝きを増した。

1929年1月、オリエント急行は雪のためにコンスタンティノープルの近くで何日も立ち往生した。乗客は飢えと寒さで死に直面し、雪の中、穴を掘って列車から外へ脱出した。アガサ・クリスティのミステリー小説「オリエント急行殺人事件」は、この出来事から着想を得た(MARY EVANS/AGE FOTOSTOCK)

ところが、それも長くは続かなかった。第2次世界大戦が始まり、オリエント急行は再び運休を余儀なくされたのだ。戦後再々開したものの、かつてのような華やかな日々は戻ってこなかった。豪華な寝台車や食堂車は普通の客車に取って代わられ、国境の閉鎖で路線が複雑化し、客足が遠のいた。ユーゴスラビアとギリシャは、1951年まで国境を再開しなかった。1952~1953年には、ブルガリアとトルコ間の路線が閉鎖され、イスタンブールまで行くことができなくなった。専門家の中には、航空機の登場によって列車の利用客が減ったと指摘する人たちもいる。

やがて1977年にはほぼ全ての運行が廃止されることになり、パリからイスタンブールまでの最後の列車が、1977年5月20日にパリを出発した。

オリエント急行の終着点コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)のシルケジ駅は、1890年に完成した。写真は、現代のシルケジ駅(STEVEN MAY/ALAMY)

その後、様々な企業がオリエント急行の名で列車を運行したが、以前のように全路線を行くものではなく、きらびやかな車両も見られなくなった。1982年、米国の実業家ジェームズ・シャーウッドが、元のオリエント急行に使用されていた車両を改装し、ロンドンとパリからベネチアまでの複数路線で豪華列車の運行を始めた。実際に利用するのは予算が厳しいという人は、ギリシャのテッサロニキ鉄道博物館で、当時使用されていた車両を見ることができる。

(文 MARÍA PILAR QUERALT DEL HIERRO、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年12月9日付]