内装は、世界の最高級ホテルを思わせる型押し革の天井、ビロードのカーテン、絹のシーツ、マホガニーの家具、銀の食器、クリスタルのグラス、大理石の内装、青銅の蛇口など、贅(ぜい)の限りを尽くしていた。ランプシェードは有名なアールヌーボーのガラス工芸家エミール・ガレによるもので、壁には、ルイ14世の時代からフランス王室向けに織物を生産していたゴブラン家の工房によるゴブラン織りのタペストリーがかけられていた。

食事もまた、オリエント急行の呼び物の一つだった。初運行の食事は、ディナーが6フラン、ランチが4フラン、シャンパンのハーフボトルが7フランだった(シャンパンだけで、当時のフランス炭鉱労働者の2日分の賃金に相当した)。フランス語とドイツ語で書かれたメニューには、最高品質のフランス産チーズ、フォアグラ、ローストビーフ、キャビア、スフレといったごちそうが並んでいた。

復元されたオリエント急行の食堂車(JOHN FRUMM/GTRES)

当初、列車は週2回、パリの東駅を出発し、ストラスブール、ミュンヘン、ウィーン、ブダペスト、ブカレストを通ってルーマニアの町ジュルジュに到着した。ここから乗客はフェリーでドナウ川を渡ってブルガリアのルセに入り、そこから別の列車に乗って黒海に面した港町バルナまで移動。再び蒸気船に乗ってコンスタンティノープルに渡った。初運行にかかった時間は、全行程で合計81.5時間だった。

コンスタンティノープルに到着した乗客たちは、オスマン帝国の皇帝アブデュルハミト2世の宮殿できらびやかな歓迎を受けた。翌日、オリエント急行は元来た道を引き返し、10月16日にパリに到着した。

王族と百万長者

オリエント急行の登場は、ベル・エポックの中心にいた国際人にとって革命的な出来事だった。ヨーロッパの上流階級に属しているなら、オリエント急行の旅を経験するのは当然のこととされた。その噂は米国にも届き、裕福な米国人も切符を買い求めるようになった。

初運行から6年近くがたった1889年6月1日、初めてパリからコンスタンティノープルまでの直通路線が開通した。旅行時間は、67時間35分まで短縮された。あらゆる点において、これがオリエント急行の黄金時代の幕開けとなった。しかし、それでもまだ大陸間移動の便利さよりも、ぜいたくとロマンの方が重視されていたことに変わりはない。車内は商談や外交の場であり、上流階級の夜会の場だった。乗客には気品が求められ、服装や行動に厳しい基準が設けられていた。ディナーの席は正装と決められ、女性はイブニングドレス、男性はタキシードまたはえんび服を着用した。

ハンガリーのブダペストにあるケレティ駅。オリエント急行は毎日この駅に到着していた。さらに、ここから週に何回か、コンスタンティノープル行きの列車が出発していた(YURY KIRILLOV/ALAMY/ACI)

王族たちも、オリエント急行に魅了された。イングランドのエドワード7世は皇太子時代に一度乗車し、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフは、バルカン地域にある領地を訪れるために何度か利用した。最初の後援者だったベルギーのレオポルド2世も常連客だったし、鉄道好きのブルガリア国王フェルディナンド1世は、運転を許されることもあったという。

王族や貴族だけでなく、政治家やT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)といった冒険家、ロシア・バレエ団を創設したセルゲイ・ディアギレフ、バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーやアンナ・パブロワ、スパイのマタ・ハリ、さらに後には、女優のマレーネ・ディートリヒやソプラノ歌手のマリア・カラスも乗客名簿に名を連ねた。

1895年当時のオリエント急行のポスター。行先と時刻表が書かれている(ALBUM)
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