セレブ魅了したオリエント急行 輝くロマンと影の歴史

日経ナショナル ジオグラフィック社

ナショナルジオグラフィック日本版

夜の闇の中、スイスの山間を抜けるオリエント急行。テレンス・クーネオ作の油絵(BRIDGEMAN/ACI)

1883年10月4日、フランスのパリ東駅は熱気に包まれていた。約20人の勇気ある乗客たちが期待に胸を膨らませ、初めて運行される豪華旅客列車に乗り込もうとしていたのだ。行き先は、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)。その列車こそ、後に世界に名を知られるようになる、伝説の大陸間鉄道オリエント急行だった。

ヨーロッパの西から東までを鉄道で結ぶというアイデアは、ベルギー人の技術者ジョルジュ・ナゲルマケールスが率いるプロジェクトから生まれ、やがて1871年の普仏戦争終結から1914年の第1次世界大戦開戦までの時代「ベル・エポック(美しき時代)」を象徴する存在となる。それは、芸術文化が栄え、人々が世界を旅するようになり、中流階級や上流階級が新たな繁栄とコスモポリタニズムを享受した時代だった。

豪華列車の旅

19世紀後半、ヨーロッパの国々はすでに鉄道で結ばれていたものの、列車の旅はあまり快適なものではなかった。乗客は振動と土ぼこりに耐え、危険な目に遭うこともあった。国境越えは、面倒で時間がかかった。それでも鉄道ビジネスは繁盛しており、鉄道所有者たちは状況を積極的に改善しようとはしなかった。

そのころ、ベルギーの著名な銀行家一族の御曹司だったナゲルマケールスは、長期休暇で米国を訪れた際に乗ったプルマン社製の寝台列車に魅了された。長距離旅行者のためのホテルのような列車は、衛生的で快適な乗り心地だった。

国際寝台車会社を創立したジョルジュ・ナゲルマケールス(BRIDGEMAN/ACI)

このぜいたくで便利な移動手段をぜひヨーロッパにも持ち込みたいと考えたナゲルマケールスは、プルマン寝台列車の生みの親であるジョージ・モーティマー・プルマンに共同事業の話を持ち掛けた。ベル・エポックが花開こうとしていたヨーロッパで、これまでになかった新しい列車の旅は、きっと需要があるに違いないと感じたのだ。しかし、プルマンに断られたため、ナゲルマケールスはヨーロッパに戻ると、プルマンの列車にヒントを得て豪華な寝台車を設計した。

1870~1871年の普仏戦争により計画は遅延したが、ナゲルマケールスは「国際寝台車会社(CIWL)」を立ち上げる。しかし、国境で止まることなくパリとコンスタンティノープルを豪華寝台列車でつなぐという大胆な計画には、強力な後援者が必要だった。

幸い、経験豊かな投資家で、鉄道愛好家としても知られていたベルギーの国王レオポルド2世が、ナゲルマケールスの提案に賛同し、8カ国の鉄道局から必要な契約を取り付けるための支援を行った。

こうして国際寝台車会社は設立後まもなく、寝台車や食堂車、特別客車を、ヨーロッパの様々な鉄道会社に提供し始めた。オリエント急行の運行開始後の1884年には、国際寝台車・欧州大急行会社という社名に変更し、ブルートレイン、ゴールデンアロー、タウルス急行といった豪華列車をヨーロッパ中で運行した。そして、ぜいたくな旅ともてなしを提供する初の多国籍企業として、ヨーロッパ、アジア、アフリカへと事業を拡大していった。

国際寝台車会社の株券(WAGONS-LITS DIFFUSION, PARIS)

初めての旅

オリエント急行という名称は、もともと新聞によってつけられ、後にナゲルマケールスによって採用された(ただし、ヨーロッパとアジアの2つの大陸にまたがり、多様な文化をもつコンスタンティノープルは、厳密には「オリエント」の一部ではなかった)。1883年の初運行には各界の著名人が集まり、盛大に祝われた。列車は、寝台車2両、食堂車1両、荷物車2両で構成され、1両の長さが17メートルあった。車体はチーク材で作られ、暖房には蒸気が、照明にはガス灯が使用された。

19世紀半ばごろのパリ東駅。1883年10月4日、初のオリエント急行が、この駅を出発した(BEAUX-ARTS DE PARIS/RMN-GRAND PALAIS)
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