
ヌラーゲ文化は紀元前18~8世紀に栄えた文化で、金属と石の加工技術を持っていたことで知られる。ヌラーゲ人は、島のあちこちに「ヌラーゲ」と呼ばれる風変わりな巨石建造物を建築した(これが、ヌラーゲ文化という名称の由来だ)。現在、サルデーニャ島では、6000を超えるヌラーゲの建造物が登録されている。島の面積が約2万4000平方キロ(四国より大きく九州より小さい)であることを考えると、驚くべき遺跡の数だ。
ヌラーゲには円形の部屋や塔が立ち並ぶことが多く、この構造はサルデーニャ島でしか見つかっていない。その具体的な役割は謎に包まれている。要塞なのか、住居なのか、宮殿なのか、あるいは、この3つすべての機能を併せ持っていたのだろうか。新たなヌラーゲの建設は、紀元前1200年ごろにほぼ中止されたようだが、残ったヌラーゲは、その後も数世紀にわたって使われていた。
巨像の製作からしばらくして、ヌラーゲ人の部族制度は衰退し始めた。この島の豊かな鉱物資源をめぐって、ギリシャ人とフェニキア人が争いを続け、最終的にフェニキア人が支配権を獲得した。その後、紀元前6世紀には、北アフリカのカルタゴ(フェニキア人が作った国家)が、サルデーニャ島を征服した。
巨像は、ヌラーゲ文化衰退後に破壊されたとみられている。これは、明らかに意図的な冒とく行為だ。フェニキア人かカルタゴ人の入植者たちが、新体制を確立するため、過去の文化を目に見える形でおとしめようとしたものだと、学者たちは考えている。
モンテプラマの巨像
2007年から2011年にかけて、考古学者たちがサルデーニャ島の巨大な石像を復元し、「ボクサー」「射手」「戦士」の3つのグループに分類した。
ボクサーは、これまで一番多く見つかっている像だ。上半身は裸で、がっちりした体形をしており、どのボクサーも頭上に盾を掲げている。収集された破片から、儀式的な拳闘に用いる手袋を右手に着用していたこともわかっている。冒頭で紹介したように、顔には2つの同心円が目として彫られている。石像は闘士や競技者を表しており、宗教的なあるいは聖職者としての役割を果たしていた可能性もあると、歴史学者たちは考えている。
射手は、右腕を敬礼するように上げ、手袋をはめた左手には弓を持ち、肩で弓を支え、長い髪をひも状に編んでいる。保存状態が良い射手の頭部は見つかっていないが、戦士と同じ特徴の顔立ちだったと専門家は推定している。一方、今までに戦士の像はわずかしか発見されておらず、保存状態も良くない。戦士のかぶとの中央には飾りがあり、上部には突起が2つある。製作された当時は、どの戦士も円形の盾を持っていた可能性がある。
