
ここはアフリカ北西部の沖合にあるスペイン領カナリア諸島、グラン・カナリア島の静かな村。夜明け前の港を科学者のチームが足早に歩いてゆく。目指すは、並んで海に浮かぶ9つの大型試験管「メソコズム」だ。
「急ごう、もうすぐ明るくなる」。目を充血させた研究者が、箱形の重そうな装置を1つのメソコズムの中に沈めた。発光する生物の活動を測定する装置だ。「明るくなってからだと測定値に影響するのです」と説明してくれた。
ウレタン樹脂でできたメソコズムは、8000リットルの海水で満たされ、それぞれに異なる量の石灰岩が混ぜられている。石灰岩は炭酸カルシウムを主成分とする岩で、水に溶かすとアルカリ性になる。
このとき研究チームが取り組んでいたのは、「海洋アルカリ化」に関する世界初の科学的野外実験だ。実験は2021年10月に完了した。人工的に海洋のアルカリ化を促進し、海に二酸化炭素(CO2)を吸収させる方法は、これまであまり検討されてこなかった。しかし、このプロセスが気候変動の流れを変えるかもしれないと期待する科学者は少なくない。
岩が水に溶けてCO2を吸収する反応は、化学的な風化作用として自然の中で普通に起こっている。大地に雨が降り、海へ流れ込むプロセスでも起きているし、海岸線が波に洗われて徐々に浸食される際にも起きている。人工的な海洋アルカリ化の目的は、この作用を促進することにある。
「岩石の風化は常に起きています」と、ドイツ、GEOMARヘルムホルツ海洋研究所の海洋生物学者ウルフ・リーベセル氏は言う。「問題は、この自然のプロセスを大幅に加速することができるかどうかです。私たちはそれをシミュレーションしているのです」
「これは未知の世界への航海です」とリーベセル氏は言う。「まだわかっていないことがたくさんあります。確かなのは、海洋アルカリ化には大きな可能性があるということです。地球を救うための時間的猶予は少なくなっているので、今すぐ検証する必要があります」

大きな可能性
理論的には、粉砕したケイ酸塩岩や炭酸塩岩を大量に海に沈めることで、CO2が吸収されるプロセスを加速することができる。リーベセル氏の推計では、現在、自然の風化によって年間10億トンのCO2が大気中から除去されているが、大規模に風化を促進すれば、年間約1000億トンのCO2を大気中から除去できるという。
人間の活動によって排出されるCO2の量が年間360億トンであることを考えると、その可能性には目を見張るものがある。また、海のアルカリ度を安定させることは、サンゴ礁を海水の酸性化から守ることにもつながる。
しかし、注意すべき点や不安な点も多い。理論上の化学反応自体は単純だが、それ以外のほぼすべての要素が未知数だ。生物多様性への影響は? 砕いた岩は、どこに沈めるべきか? 予想外の結果を招くことはないのだろうか? コストはどのくらいかかるだろうか? 誰が実用の可否を判断するのか? そもそも、リーベセル氏らが検証しているように、この試みはうまくいくのだろうか?