日経ナショナル ジオグラフィック社

民族的には中国人、文化的にはプラナカン

19世紀、中国は外国からの侵攻、洪水、干ばつ、飢餓、政情不安に悩まされていた。そのため多くの独身男性が、シンガポールなどの植民地や港で働くために故郷を離れた。「彼らが現地女性と結婚すると、その子どもたちもまたプラナカンと呼ばれました」と、シンガポール南東部にあるアンティークショップ兼博物館カトン・アンティーク・ハウスのガイドを務めるアンジェリン・コンさんは話す。

177人のプラナカン・チャイニーズのDNAを調べた2021年の研究によると、現代のプラナカン社会に属する人々は平均5.6%の割合でマレー人の祖先のDNAを持っていることがわかった。また、マレー人の遺伝子マーカーはほとんどが女性由来のものだった。この結果により、プラナカンはマレー諸島に移住した中国人と現地のマレー人との間にできた子どもたちの末裔(まつえい)であるという説が信ぴょう性を増した。研究ではさらに、プラナカンのうち10%が100%中華系であることもわかった。

この研究結果によって、今も続くプラナカンの遺産継承権が人によって変わるわけではなさそうだ。「プラナカンとは、民族的アイデンティティーではなく、文化的アイデンティティーです」と、シンガポール・プラナカン協会の会長ババ・コリン・チー氏は、ストレイト・タイムズ紙に対して語っている。

伝統的なプラナカンの結婚式を写したビンテージ写真。ストレイト・エンクレーブに展示されている(PHOTOGRAPH BY ORE HUIYING)

プラナカンの男性は「ババ」(ペルシャ語起源の敬称)と呼ばれ、女性は「ニョニャ」(ポルトガル語のドーナが語源)と呼ばれている。伝統的に彼らは、マレー語と福建語が融合したババ・マレー語を話す。言語と同様、プラナカンのファッション、デザイン、芸術、料理も、マレー人、中国人、その他この地域へ移住してきたポルトガル人、オランダ人、英国人、インド人といった様々な文化の影響を受けている。

かつてシンガポールが植民地だったころ、地域指導者の多くがプラナカンだった。海運王、農園主、銀行家だった彼らは、マレー語と中国語、英語を操って現地人と英国政府との間を仲介する役割を担った。

2021年8月28日、シンガポールのプラナカンレストラン「キャンドルナット」で夕食の休憩をとる従業員。キャンドルナットは、プラナカンレストランとして世界で唯一ミシュランの星を授与されている(PHOTOGRAPH BY ORE HUIYING)

また美しいものを好んだプラナカンは、フランスからガラス製のビーズを、ポーランドからはホーローの食器を、オランダとインドネシアからは刺しゅうが施されたレースのブラウスやサロンを、中国からは精巧な彫刻のチーク材の家具や磁器を、そして英国からは花模様のタイルを輸入した。

プラナカンの社会経済的地位は、1920~30年代に頂点に達したが、1940年代の日本統治時代に急落した。生活のために、多くのプラナカンは家具や骨董品、高価な服を売り払った。「戦後、特に英国がいなくなると全てが減速し始めました。生活様式が変わり、残ったものもやがて失われてしまいました」と、コン氏は言う。

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1980年代、プラナカン文化に危機