2021/12/26
カホキア墳丘群遺跡を示した1913~14年ごろのレリーフ地図(HISTORIC COLLECTION/ALAMY)

かつて周辺に住んでいたフランス人修道士たちにちなんでその名が付けられたモンクス・マウンドは(モンクは修道士の意)、1925年に小さな州立公園となったが、ソリ遊びやキャンプをする場所として利用されていた。カホキアの残りの部分は、1960年代に入るまではほぼ放置状態だった。

皮肉なことに、カホキアが地図に載るきっかけとなったのは、この土地にそれまでで最大の建築プロジェクトが持ち上がったことだった。ドワイト・アイゼンハワー大統領の州間高速道路計画には、その経路にある遺跡の調査に関する条項が含まれていた。計画では2本の高速道路が遺跡を串刺しにするように貫いていたことから、遺跡の体系的な調査が開始された。そして考古学者たちは、天啓とでも呼ぶべき大発見をした。

モンクス・マウンドの東側で発見された、西暦1300年ごろの砂岩でできた銘板(IRA BLOCK/NATIONAL GEOGRAPHIC IMAGE COLLECTION)

ただの巨大な土の山ではなかった

カホキアは、ただの巨大な土の山ではなかった。考古学者たちがどこを掘っても、そこから家が見つかった。これは、何千人もの人々がかつてここでコミュニティーを形成していたことを示していた。そしてその家の多くは、非常に短い期間内に建てられたものだった。

調査により、どうやら1050年前後に、この都市全体が一気に活気づいたことがわかってきた。周辺地域から人々が続々と集まり、家を建て、新しい都市のインフラを整えていった。その中には、上部に建物が設置された墳丘のほか、サッカー場45面分ほどの広さを持つ巨大な広場もあり、スポーツや宗教行事に使われていた。

巨大なモンクス・マウンドの上から眺めれば、目の前には広大な氾濫原が広がっていた。周辺で最も高かったであろう墳丘の建設を指揮した後、部族の長あるいは高位の僧侶は、自らが統治する土地を鳥の視点から見渡すことができただろう。

カホキアがそのような単独の指導者を頂いていたという仮説はしかし、広く認められているものではない。この場所が当時何と呼ばれていたのかも、ここに住んでいた人たちが自らを何と呼んでいたのかもわかっていない。「カホキア」というのは、1600年代にこの周辺に住んでいた部族の名前を借りたものだ。この土地の人々は書き言葉を持っておらず、彼らを知る手がかりは少なく、その解釈にはさまざまな議論がある。

専門家の間で意見が一致しているのは、トウモロコシが地域の食生活を支えるようになってから2世紀ほどで急速にこの都市が発展したこと、氾濫原に人々が引き寄せられてきたこと、そして、ミシシッピ文化のほかのコミュニティーと比べて規模と範囲がとてつもなく大きかったことなどが挙げられる。

カホキアの建造物は、夏至や春分などの天文学的現象の発生のタイミングがわかるよう設計されていた(DANIEL SEURER)

ミシシッピ文化

カホキアの墳丘とそこに住んでいた人々の築いた文化は、今日ではミシシッピ文化と呼ばれている。カホキアの遺跡は現在までに発見された中で最大の集落だが、考古学者たちはこのほかにも、米国南東部から中西部、さらには北の五大湖地域でもミシシッピ文化の集落跡を発見している。カホキアと同様、その多くは、巨大な土塁、木製の柵や要塞、銅、貝、石で作られた遺物などを特徴としている。

ミシシッピ文化の始まりを特定するのは難しいが、多くの専門家は西暦800年前後と考えている。そのころ、ミシシッピ川渓谷中央部に村が形成され始め、農民たちはトウモロコシ(これが主食となっていく)、豆、カボチャなどを栽培した。同じような集落は、その他の河川流域にも現れた。こうした北米の肥沃な土地で、ミシシッピ文化の人々は、温暖な気候、豊富な水、さらには木材、木の実、魚、野生動物といった豊富な天然資源を享受していた。

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高くそびえる墳丘