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アメリカに1000年前の大都市 突如、衰退どうして?

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ナショナルジオグラフィック日本版

米イリノイ州、ミシシッピ川の東に、先住民が築いた大都市の遺跡がある。カホキアだ。西暦1000年から1200年代の最盛期には、この都市は面積約16平方キロメートルに達し、住民たちは墳墓や公共建造物、さらには「ウッドヘンジ」と呼ばれる天文観測所を建設した。

なかでも大きな存在感を放っていたのは、メキシコ以北最大の土塁であるモンクス・マウンドだ。複数の段からなるこの墳丘は、約30メートルもの高さにそびえていた。

カホキアの墳丘群は、その昔、メキシコの砂漠と北極圏に挟まれた地域において最大規模をほこった「ミシシッピ文化」の核となる遺跡だ。農業文明であるミシシッピ文化は、西暦800年ごろから最盛期の13世紀頃にかけて今の米国中西部と南東部に広がった。アメリカ先住民の最も優れた業績の一つとも言われるカホキアには、この文化の痕跡が目に見える形で残されている。

カホキアが見捨てられてきた理由

現在、カホキアは、イリノイ州の史跡、国の歴史的建造物、ユネスコの世界遺産に指定されている。しかし、近年までは地元の人たちしか知らない遺跡だった。その背景には深い事情がある。

カホキア墳丘について初めて詳細な記述を残したのは、ヘンリー・M・ブラッケンリッジだった。弁護士でアマチュア歴史家だったブラッケンリッジは、1811年、周辺の草原を探索している最中に偶然、この遺跡と巨大な中央墳丘を見つけた。「非常に驚かされた。まるでエジプトのピラミッドを眺めているような気分だった」と書き残している。

ブラッケンリッジの発見を報じた新聞記事は、ほとんど話題にならなかった。ブラッケンリッジはこれについて、友人の元大統領トーマス・ジェファーソンに宛てた手紙で不満を述べている。友人にこうした著名人がいたことで、カホキアの存在はようやく知られるようになっていったものの、その後もさして注目を集めることはなかった。

1830年にアンドリュー・ジャクソン大統領が制定したインディアン強制移住法は、東部の先住民をミシシッピ以西の土地に移住させることを命じたもので、その前提には、アメリカ先住民は「野蛮人」であるという白人至上主義的な考え方があった。

かつて栄えた大都市があったという証拠は、こうした考えにとって都合が悪かった。19世紀の歴史家たちは、カホキア墳丘群を築いた人々の正体について、フェニキア人からバイキング、さらには失われたイスラエルの部族まで、滑稽なほど多様な候補を挙げてみせた。それほどまでに、アメリカ先住民の技術や尽力を認めたくなかったのだ。

米国の大学でさえ、カホキアをはじめとする国内の遺跡にはほとんど目を向けなかった。1880年代になってようやく、スミソニアン協会のサイラス・トーマスが何年もかけて現地調査を行った末、墳丘群がアメリカ先住民のものであることを証明した。それでもカホキアや近隣の墳丘群の価値を認める人の数はそう多くはなかった。

かつて周辺に住んでいたフランス人修道士たちにちなんでその名が付けられたモンクス・マウンドは(モンクは修道士の意)、1925年に小さな州立公園となったが、ソリ遊びやキャンプをする場所として利用されていた。カホキアの残りの部分は、1960年代に入るまではほぼ放置状態だった。

皮肉なことに、カホキアが地図に載るきっかけとなったのは、この土地にそれまでで最大の建築プロジェクトが持ち上がったことだった。ドワイト・アイゼンハワー大統領の州間高速道路計画には、その経路にある遺跡の調査に関する条項が含まれていた。計画では2本の高速道路が遺跡を串刺しにするように貫いていたことから、遺跡の体系的な調査が開始された。そして考古学者たちは、天啓とでも呼ぶべき大発見をした。

ただの巨大な土の山ではなかった

カホキアは、ただの巨大な土の山ではなかった。考古学者たちがどこを掘っても、そこから家が見つかった。これは、何千人もの人々がかつてここでコミュニティーを形成していたことを示していた。そしてその家の多くは、非常に短い期間内に建てられたものだった。

調査により、どうやら1050年前後に、この都市全体が一気に活気づいたことがわかってきた。周辺地域から人々が続々と集まり、家を建て、新しい都市のインフラを整えていった。その中には、上部に建物が設置された墳丘のほか、サッカー場45面分ほどの広さを持つ巨大な広場もあり、スポーツや宗教行事に使われていた。

巨大なモンクス・マウンドの上から眺めれば、目の前には広大な氾濫原が広がっていた。周辺で最も高かったであろう墳丘の建設を指揮した後、部族の長あるいは高位の僧侶は、自らが統治する土地を鳥の視点から見渡すことができただろう。

カホキアがそのような単独の指導者を頂いていたという仮説はしかし、広く認められているものではない。この場所が当時何と呼ばれていたのかも、ここに住んでいた人たちが自らを何と呼んでいたのかもわかっていない。「カホキア」というのは、1600年代にこの周辺に住んでいた部族の名前を借りたものだ。この土地の人々は書き言葉を持っておらず、彼らを知る手がかりは少なく、その解釈にはさまざまな議論がある。

専門家の間で意見が一致しているのは、トウモロコシが地域の食生活を支えるようになってから2世紀ほどで急速にこの都市が発展したこと、氾濫原に人々が引き寄せられてきたこと、そして、ミシシッピ文化のほかのコミュニティーと比べて規模と範囲がとてつもなく大きかったことなどが挙げられる。

ミシシッピ文化

カホキアの墳丘とそこに住んでいた人々の築いた文化は、今日ではミシシッピ文化と呼ばれている。カホキアの遺跡は現在までに発見された中で最大の集落だが、考古学者たちはこのほかにも、米国南東部から中西部、さらには北の五大湖地域でもミシシッピ文化の集落跡を発見している。カホキアと同様、その多くは、巨大な土塁、木製の柵や要塞、銅、貝、石で作られた遺物などを特徴としている。

ミシシッピ文化の始まりを特定するのは難しいが、多くの専門家は西暦800年前後と考えている。そのころ、ミシシッピ川渓谷中央部に村が形成され始め、農民たちはトウモロコシ(これが主食となっていく)、豆、カボチャなどを栽培した。同じような集落は、その他の河川流域にも現れた。こうした北米の肥沃な土地で、ミシシッピ文化の人々は、温暖な気候、豊富な水、さらには木材、木の実、魚、野生動物といった豊富な天然資源を享受していた。

カホキアをはじめとするミシシッピ文化の遺跡から出土する遺物は、当時の北米の村々に大規模な交易ネットワークが存在したことを示している。カホキア遺跡の「34番」の墳丘には、北米で唯一の、先住民が銅を扱った作業所があったことがわかっている。銅は五大湖地域からカホキアに運ばれていた。銅塊を加工して作られた神聖な品々や外交的な贈り物は、大陸中のミシシッピ文化の遺跡で見つかっている。

高くそびえる墳丘

カホキアにはかつて120基もの墳丘がそびえていた。現在はそのうちの80基が保存され、カホキア墳丘群州立史跡の一部となっている。この都市では、広場、家、公共の建物、墳丘、そしてそれらをつなぐインフラが、すべて太陽と月の動きに合わせた格子上に配置されていた。

墳丘は、カホキアの文化においてさまざまな目的を持っていたことが明らかになっている。考古学者は、墳丘をその構造に基づいてフラットトップ(上部が平面)、ラウンドトップ(上部が丸みを帯びている)、リッジトップ(上部が平面でない)の3つに分類している。フラットトップの墳丘は通常、上部に何らかの建物があり、ラウンドトップの墳丘は埋葬用だった。リッジトップの墳丘は、一部には埋葬に使われているものもあるが、「方向を示す」役割を持つものと分類されている。

最大の墳丘であるモンクス・マウンドは、広さ約5万7000平方メートル、高さは約30メートルある。いちばん高い段の上にはかつて、族長または神官の住居、あるいは儀式の場と見られる構造物があった。モンクス・マウンドの建設には約62万立方メートル分の土が必要だったと考えられている。土は近隣で石器を使って掘り出され、かごに入れて運ばれた。

謎の衰退

最盛期には1万5000人がカホキアに住んでいたとされるが、1400年にはすでに閑散としていた。カホキアの消滅は、おそらくはその出現よりもさらに大きな謎と言えるだろう。周辺のかなりの部分からも住人がいなくなったことから、この時期の一帯は「Vacant Quarter(無人の地)」と呼ばれている。

歴史家によると、カホキアの都市は気候がとりわけ良好な時期に繁栄を極め、縮小が始まったのは、気候が以前よりも寒冷で乾燥し、予測がしづらくなったころだという。定期的な作物の収穫に頼っていた農業コミュニティーにとって、こうした状況の変化は単なるストレスにとどまらず、壊滅的な影響を与えた可能性もある。

1175年から1275年の間に、カホキアの住人は都市を取り囲むように防御柵を築いた(数回にわたり再建もしている)。これは争いや争いの脅威が日常の一部となっていたことを示している。また、人口の密集が引き起こす公害や病気、資源の枯渇などの環境問題によって、これまで多くの社会が崩壊してきた。

カホキア崩壊の最も有力な説の一つは、いわゆる森林破壊仮説と呼ばれるものだ。1993年、南イリノイ大学エドワーズビル校の研究者らは、カホキアの衰退は防御柵などの建造のために大量の木を切り倒したことによるものではないかという仮説を提唱した。木が少なくなれば、浸食が進み、洪水が起こり、収穫が減る。彼らの仮説は、カホキア研究者の間で広く受け入れられた。

2021年春、地質考古学者のケイトリン・ランキン氏がこの考えを覆した。ランキン氏は学術誌「Geoarchaeology」に研究を発表し、森林伐採や洪水が都市滅亡の原因になったとする説を否定した。ランキン氏が行った発掘調査からは、カホキアの時代に洪水が起こった痕跡は見つからなかったという。

学者たちはさまざまな説を検討しており、異なるグループ間の争いが増えて都市の衰退を招いたのではないか、あるいは、一帯で大規模な干ばつが起こったために、カホキアの人々がより肥沃な土地を求めて都市を離れたのではないかといった意見が出されている。

(文 EDITORS OF NATIONAL GEOGRAPHIC、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年12月4日付]

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