
帝国の拡大と崩壊の背景
1481年、アシャヤカトルの弟のティソクが第7代の統治者になった。彼の治世は短く、反乱が起こり、領土もたいして拡大できなかったが、その権力を誇示する「ティソクの石」という円盤状の石碑が残っている。
次に権力を握ったのは、アステカで最も偉大な統治者とされるアウィツォトルである。彼は今日のグアテマラまで国境を広げ、マヤの地に迫った。1502年にアウィツォトルが死去するとモクテスマ2世が第9代の統治者となり、太平洋側のサポテカ人の土地にまで三国同盟の影響力を大きく広げた。エルナン・コルテスが運命の上陸を果たし、1519年4月22日にベラクルスに植民地を設立したときの統治者もモクテスマ2世だった。
帝国を拡大する手段は戦争だけではなかった。都市国家やその土地は、外交や相続によっても獲得された。同盟の領土内の領主の死はチャンスであり、権力継承のプロセスは、しばしば緊張したものとなった。後継者候補が同盟の力に抵抗すれば、メシカに従順な近親者に交代させられることもあった。地方を強力に支配することで、アステカはより多くの力を蓄えられたのだ。
このシステムにより、同盟内には複雑な権力構造が形成されていった。ある地方の領主はテノチティトランの大領主に従い、別の地方の領主はテスココやトラコパンの大領主に従うといった構造である。この複雑な構造にもかかわらず、三国同盟は数十年の間に急速に発展したが、複雑さによって生じた争いがテノチティトランを滅ぼす要因となった。
後継者選びが複雑になるのは、複数の後継者候補が大領主との間で同じような関係にあり、大領主がその中から1人を選ばなければならない場合だ。コルテスが到着する少し前に、テスココの統治者ネサワルピリが死去したとき、まさにこの状況になった。
3人の後継者候補は、いずれもテノチティトランの貴族を母に持っていた。そのため、モクテスマは2つの派閥を拒絶する危険を冒さなければならなかった。拒絶された後継者候補の1人であるイシュトリルショチトルは、のちにスペインと同盟を結ぶことになる。
権力の疎外と地方の対立がテノチティトランの崩壊の要因となった。スペインの侵攻を前にして、メソアメリカの都市国家はそれぞれに生き残りの道を選んだ。トラスカラのようにスペインと同盟を組むことを選んだものもあれば、メシカのように戦うことを選んだものもあった。スペインがアステカを滅ぼした1521年の出来事について再検証が始まっている今、メシカの物語とその運命については、まだ多くの謎が解明される日を待っている。

(文 JOSÉ LUIS DE ROJAS、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年9月25日付]