謎多き国家アステカ 同盟帝国だったから滅亡した?

日経ナショナル ジオグラフィック社

ナショナルジオグラフィック日本版

メキシコ人画家ホセ・マリア・ハラが1889年に描いた絵。メシカの神官が、都を築くべき場所を告げる様子が描写されている。ウチワサボテンが描かれているのは、テノチティトランがナワトル語で「ウチワサボテンに囲まれた場所」を意味することを示している。メキシコ国立美術館(メキシコシティ)所蔵(PHOTOGRAPH BY DAGLI ORTI/AURIMAGES)

15世紀から16世紀にかけて繁栄したメソアメリカ文明の国家アステカ。その都テノチティトランの遺跡は、メキシコの首都メキシコシティの地下にある。近代的な建築物に囲まれた「テンプロ・マヨール(大神殿)」遺跡の調査が進み、アステカの都市とその住民の姿が次々と明らかになっている。

スペインによるアステカ征服は1521年のこと。これまで、ヨーロッパ人による記録の多くは征服者であるエルナン・コルテスを主役にしていたが、近年は、征服された側であるアステカ人の記録が注目されるようになってきている。そこには、メソアメリカの都市国家間の同盟が、いかにして急速に力をつけ、失われたかという、複雑で魅力的な物語が展開されている。

カラフルな年代記

「アステカ」という呼称は、ドイツの科学者で探検家でもあったアレクサンダー・フォン・フンボルトによって19世紀初頭に作られた造語であり、アステカの人々は自分たちを「メシカ(Mexica)」と呼んでいた。

アステカ時代のメソアメリカに関する私たちの知識の多くは、メシカ自身が残した記録と、1519年以降にスペイン人が作った記録によるものだ。現在のメキシコからコスタリカまでの地域にあたるメソアメリカには、アステカ以外の文化や都市国家も数多く存在していたが、アステカについては、豊富な資料が残っているおかげで、より具体的なことがわかっている。メシカの人々は記録の中で、自分たちは権力を持つことを宿命づけられた民族であり、数々の困難を乗り越えて広大な帝国を支配するに至ったとしている。

メシカの人々は、自分たちの祖先、行い、信仰、習慣などを絵文書(コデックス)に記録していた。

その多くはスペインの侵攻の際に失われたが、5つは残った。これらはスペイン人によって略奪されてヨーロッパに送られ、現在はいくつかの博物館に所蔵されている。

テノチティトランの陥落後、絵文書の制作は再開された。なかには、スペインの人々がメソアメリカの人々をよりよく理解し、植民地支配に役立てるために作られたものもある。特に有名なのは、スペイン王でもあった神聖ローマ皇帝カール5世のために1542年に制作された「メンドサ絵文書」だ。絵文書にはスペイン語の解説も添えられており、第1部にはテノチティトランの歴代のトラトアニ(統治者)と、それぞれが征服した都市について記され、第2部には彼らが受け取った貢ぎ物が記されている。

テノチティトランの大神殿跡「テンプロ・マヨール」の、羽毛のある蛇の像。ここは雨の神トラロックと戦争の神ウィツィロポチトリをまつった巨大な神殿群だった(PHOTOGRAPH BY KENNETH GARRETT)
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