
2人に1人ががんになる時代。がんと付き合いながら仕事をするには、職場の理解が重要だ。とはいえ、「うちの会社には特別な制度はないし…」という人も少なくないだろう。制度はあるにこしたことはないが、職員の働きかけから新しい取り組みが生まれ、自分らしく仕事ができる環境を作れることもある。
自身もがんになったライター、福島恵美が、がんになっても希望を持って働き続けるためのヒントを探るシリーズ。46歳でがんが再発した後、社内でがん体験を伝えたり、治療と仕事の両立支援を推進したりしているサッポロビールのプランニング・ディレクター、村本高史さんに自身のがんと仕事について聞いた。
職場復帰は数百通のメールを出すことから
――村本さんが、がんになられた経緯をお聞かせいただけますか。
2009年の春、44歳の時に食道上部の喉の近くにがんが見つかり、頸部(けいぶ)食道がんと診断されました。この時は放射線治療を行い、同じ年の秋にはがんが検出できない状態に回復したのです。その後は定期的に検査を受け、経過観察をしていたのですが、2011年夏に同じ部分への再発が分かりました。外科手術を行うしか治療の選択肢はなく、声帯も含めて喉頭部を切除したため、声が出なくなりました。
入院・自宅療養期間を合わせて、仕事を休んだのは3カ月半です。2012年の年明けから職場復帰することにしたのですが、私はサッポロビールでの社歴が長く、当時は人事総務部長というポジションにいたので社内外の知り合いがとにかく多い。会話ができないことが問題でした。声が出ない以上、自分ががんになったことはいずれ分かってしまいます。そこで復帰する前の年末に、関係者数百人にがんになった自分の状況をメールで伝えました。すると、社内だけでも150通くらいの励ましの返信があって。年明けに出社するといろいろな人たちから「復帰できてよかった」と声をかけられ、温かく迎えてもらえました。
――仕事を休んでも、自分を待っていてくれる人がいるとうれしいですね。
本当にいい会社だと思いました。私がこの時に送ったメールに「人間は自分が気づいている以上の可能性を持っていて、私もその一人であると信じ、当社の中で自分にやれることをやりながら、自分にしかできないことを考え、実行していきたいと思っています」と書きました。今から思えば、当時は自分にそう言い聞かせるしかなかったのだと思います。この自分の言葉は、その後の自らを奮い立たせる言葉の一つになっています。
食道発声教室に通い、会話ができるように
――職場でのコミュニケーションで、工夫されたことはありますか。
復帰した直後は常に電子メモを持ち、筆談でコミュニケーションを図りました。それに、復帰前から、食道を震わせて声を出す、食道発声[注1]を習得するための教室に通いました。主治医から再発を告げられた時に「手術をすれば、がんは治る可能性があります。食道発声を身に付ければ、小さい声だけど出るようになります」と言われたので、入院前に公益社団法人銀鈴会(ぎんれいかい)の食道発声教室を見学しました。そこには、私と同じようにがんで声帯を失った人が、明るく懸命に発声練習をしていてすごく感動して。「生きてさえいれば何とかなる!」と大きな勇気と希望をもらいました。
――食道発声教室には、どのくらい通われたのですか。
2011年11月から2014年3月まで通いました。私が行っていた教室は火・木・土曜の週3回、日中に1時間くらい開催されています。土曜は会社が休みですが、火・木曜はお昼休みから抜けて教室に行き、15時に戻って仕事をするようにしていました。会社には私用外出として認めてもらいました。教室は発声の程度によって、初心者から上級まで4つのクラスがあります。私は1年で上級クラスに上がり、入会から2年半で卒業して、声量や速度の制約はあるものの日常会話は問題なくできるようになりました。
[注1]口や鼻から食道内に空気を取り込み、食道の入り口部の粘膜のヒダを新声門として、声帯の代わりに振動させて発声する方法。器具を必要としない。