福島千里さん 陸上って何? 分からないから面白い
元トップアスリートに聞く(下)
陸上競技女子100m(11秒21)と200m(22秒88)の日本記録保持者で、五輪には北京、ロンドン、リオデジャネイロと3大会連続で出場。2022年1月末まで、日本女子スプリント界をけん引してきた福島千里さんだが、競技生活の後半は両足のアキレス腱(けん)周囲炎などのケガに苦しみ、19年のアジア選手権以降、100mで12秒を切れないレースが続いた。日本選手権のスタート地点にすら立てない中、どのようなマインドでトレーニングを続け、21年に日本選手権の切符をつかむことができたのか、お話を伺った。
◇ ◇ ◇
――2018年以降、ケガが多く結果が出せなかった中、どのような気持ちで過ごされていたのでしょう。
18年に上京してセイコー(セイコーホールディングス)に所属し、結果を残したい気持ちでいっぱいでしたが、両足のアキレス腱周囲炎で思うように練習できませんでした。20年には自分ともう一度向き合って五輪出場という目標へ向かいたいという気持ちで、練習拠点を順天堂大学に移し、同大学スポーツ健康科学部教授で日本陸連強化委員会ディレクター(現在は強化委員長)の山崎一彦先生(95年のイエテボリ世界選手権400mハードルのファイナリスト)の下で練習することにしたのです。山崎先生も現役時代に、アキレス腱周囲炎に悩んでおられたので、そんな先生の下でもう一度頑張りたいと思いました。
――アキレス腱周囲炎に悩まされていた頃の練習や治療はどうされていたのでしょうか。
それまでは、痛みを我慢しながら無理をして練習してきました。でも、20年11月から、東京五輪男子マラソン代表の大迫傑選手のトレーナーも務める五味宏生さんのリハビリやフィジカルトレーニングを受け始め、五味さんから「痛みをゼロにしたい」と言われたんです。山崎先生も「一度休んで、ある程度練習できる状態にまで戻した方がいい」と提案してくださいました。休んでいいと言われたときはびっくりしましたが、すごく安心したことを覚えています。治療を優先するために日本選手権に出場しないという選択を初めてしました。
――休んでいいと言われ、なぜ驚いたのでしょう。
当時の私は、日本選手権は、痛みがあろうが無理してでも出場する大会だと思っていました。「出場しない」という選択肢はなかったし、それまでの日本選手権も多少痛みがあっても出場していました。どんな状態でも、どれだけ無理ができるかがトップアスリートの本質だと思っていたんです。今の時代に合っていないかもしれませんが。
でも周囲が「休みなさい」とアドバイスするのは、そこまでのひどいケガであり、ある程度、治さないと何もできない状態なのだとも認識しました。休んで治すことで新しい何かが発見できるなら、日本選手権に出場しないという決断をしようと思ったんです。
――アキレス腱を休ませている間の練習は?
走らず、アキレス腱を使わないトレーニングをしていました。例えば、JISS(国立スポーツ科学センター)にある標高3000mと同程度の低酸素にできる施設内で、負荷を調整できる自転車型トレーニングマシンを全力でこいで、心拍数を上げる練習です。とにかくつらかったけれど、自転車の横にトレーナーさんらがついてくださって、「行け~!頑張ってこげ~!」と声をかけてくださったおかげで追い込むことができました。「自分があきらめたら、サポートしてくれるみんなに申し訳ない」という気持ちや、「痛みさえなくなれば絶対に走れる」と自分を信じていたから、あの走れなかった期間を乗り越えられたのかなとも思います。
――治療はどうされていたのでしょうか。
鍼(はり)もマッサージも試しましたが、私の場合は痛みがゼロになることはありませんでした。アキレス腱に触られるだけでも痛かったので、とにかく触らずに何とかして治そうと…。
最終的には、痛みをかき消すアキレス腱の強さが欲しいという考えになり、痛みがだいぶ小さくなった段階で、痛みを上回るトレーニングをしました。
――痛みを上回るトレーニングとは?
ウエート器具を使った筋トレや、ジャンプをしたりして、アキレス腱に負荷をかけるんです。アキレス腱を強化するというイメージです。もちろん痛みが増すリスクもあるので、この選択が正しいとは言えません。でも、東京五輪の選考会である日本選手権までの時間がなかったので、やれることはやろうといろんなことを試しました。
なぜそこまでやるのかと思われるかもしれませんが、企業にサポートしてもらうトップアスリートとして、東京五輪は最後の目標でした。そのための選考会の日本選手権出場は絶対条件であり、それをクリアするために必死でした。
ラストチャンスで日本選手権の切符をつかめた理由
――20年9月の富士北麓ワールドトライアルでは100mの結果が12秒台で、日本選手権に出場するための申込資格記録(11秒84)に届かず、「日本一を決める日本選手権の土俵にすら上がれないのは考えられない」と涙されました。どんな心境だったのでしょう。
「こんなに頑張っているのに」などと自分を正当化したことは一度もなくて、周囲がこんなにサポートしてくれているのに、「私のせいで結果が出ない…」という感情が強かったゆえの涙だったと思います。悔しさもあるけれど、それを上回る申し訳なさがありました。
――翌年の日本選手権出場への最後のチャンスとなった21年6月の布勢スプリントの決勝では11秒78を記録し、切符をつかみます。最後の最後でつかめた要因はなんだと思われますか。
20年から21年にかけての冬季シーズンは、山崎先生やトレーナーさんらのサポートによってアキレス腱の調子をよくしていただき、トレーニングができていました。「よし、これなら!」と思って挑んだ21年3月の順天堂大学競技会では100m11秒86、4月に11秒97を記録しました。でも、同月に左大腿筋の肉離れをしてしまって…。周囲に無理を言って5月の東日本実業団選手権に出場しましたが、12秒33で日本選手権の出場権は得られませんでした。やっぱり日本選手権には参加できないかも…と不安でしたが、あのとき(布勢スプリント)はいい追い風が吹いてくれたのと、肉離れをしてからよりも先生やトレーナーさんと練習に取り組んできた期間の方が長かったので、その努力を信じて走ったゆえの11秒7台だったと思います。
――ケガに見舞われ、なかなか結果が出ない中、気持ちが折れなかったのはなぜだと思いますか。
多くのサポートがあったから続けられたのですが、現状に満足をしなかったことが大きいと思います。純粋にもっと速く走りたかったし、東京五輪という目標も達成したかった。自分はもっとやれるし、やり方は1つじゃないと思っていたからこそ、腐らずに続けられたのかなと思います。
たんぱく質ファーストの生活で、牛肉を意識
――現役時代、パフォーマンスを発揮するために、心がけていた生活習慣やセルフケアについて教えてください。
食事は基本的に自炊ですが、09年から栄養士によるサポートを受けていたので、練習や筋トレをよりよいものにするためには、食事は不可欠だと考えていました。たんぱく質の摂取はもちろん、同時に鉄分もとりたかったので、スーパーでは牛肉を買うことを意識していました。たんぱく質に含まれたアミノ酸を体内で枯渇させないことが、回復につながりやすく翌日のよい練習につながるので、サプリやプロテインもトレーニング後には必ずとっていました。
こんなことを話すと、ストイックに見えるかもしれませんが、神経質になりすぎず、おなかがすいたら食べていたという感じです。食べないと痩せる体質なので、無理して食べることでベスト体重をキープしていました。
――鉄分を意識してとっているという話でしたが、生理周期による貧血などはありましたか。
貧血はありませんが、女性ホルモンの分泌の変化で体がむくみ、アキレス腱がスパイクのかかと部分に触れて、ものすごく痛いんです。くるぶし丈の靴下が当たるだけでも痛かった。スパイクは足にピッタリの大きさで作られていますからなおさら。その圧痛を引き起こさないために、医師に相談して低用量ピルを飲み、試合日に生理が重ならないようにコントロールしていました。私はアキレス腱のために飲んでいたので、他の選手とは用途が違うと思いますが。
――睡眠については?
そんなに意識していないですが、とにかく練習がハードで疲れ果ててしまうので、入眠は早かったです。あとは、疲労を感じたときには酸素カプセルを活用していました。使った翌日は、目覚めがよかったと思います。
日常生活を練習以上に大切にしなければいけないと、社会人になってから思えるようになりました。この大前提は、絶対に忘れないようにしようと心がけていました。
――福島さんにとってのリラックスタイムは?
最近のリラックスタイムは、飼い犬のミニチュア・ピンシャーと一緒に過ごすことです。でも、共感を得られるか分からないですが、自分の限界に挑むような練習は、じつは私にとってはストレスではありませんでした。だから、リラックスは何かと聞かれると、速く走れたときや、できないことができるようになったときなんです。限界に挑んで結果につながったときこそ、最高にハッピーな気分になれる。そう考えると、一番のストレス解消法は、練習することだったと思います。
30代に突入して疲労が抜けにくくなり、ケガも治りにくくなって、休むことの重要性を学びましたが、ケガで練習を休むことは私にとってハッピーではなかったし、休まずに練習できることこそハッピーでした。そういう意味では、ケガで苦しい期間もあったけれど、充実した幸せな競技人生だったと思います。
もちろん、今もとても幸せですよ。アキレス腱は痛くないし、晴れた日にグラウンドに行くのは楽しいし、大学生たちが練習を頑張っているのを見るのも楽しい。大学院で学び、いろんな経験をしながら陸上で培った感覚を学生選手たちに共有できればと思っています。
――福島さんにとって、陸上競技とは?
何でしょうね。魅力的で素晴らしいものであることは間違いないですが、自分にとって何なのか分からないからこそ、何十年もやってこられたかもしれないし、分からないから面白かったのかもしれない。いろんな人に迷惑をかけましたが、関わってくれた方々も幸せだと思ってもらえたなら、私も幸せです。
(ライター 高島三幸、写真 厚地健太郎、ヘアメーク 高柳尚子)
1988年北海道生まれ。北京・ロンドン・リオデジャネイロ五輪日本代表。女子100m(11秒21)、200m(22秒88)の日本記録保持者。日本選手権の100mで2010年から2016年で7連覇を成し遂げ、2011年の世界陸上では日本女子史上初となる準決勝進出を果たした。2022年1月に現役生活を引退。引退後は、セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)として次世代育成に貢献している。
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