日経Gooday

――治療はどうされていたのでしょうか。

鍼(はり)もマッサージも試しましたが、私の場合は痛みがゼロになることはありませんでした。アキレス腱に触られるだけでも痛かったので、とにかく触らずに何とかして治そうと…。

最終的には、痛みをかき消すアキレス腱の強さが欲しいという考えになり、痛みがだいぶ小さくなった段階で、痛みを上回るトレーニングをしました。

――痛みを上回るトレーニングとは?

ウエート器具を使った筋トレや、ジャンプをしたりして、アキレス腱に負荷をかけるんです。アキレス腱を強化するというイメージです。もちろん痛みが増すリスクもあるので、この選択が正しいとは言えません。でも、東京五輪の選考会である日本選手権までの時間がなかったので、やれることはやろうといろんなことを試しました。

なぜそこまでやるのかと思われるかもしれませんが、企業にサポートしてもらうトップアスリートとして、東京五輪は最後の目標でした。そのための選考会の日本選手権出場は絶対条件であり、それをクリアするために必死でした。

ラストチャンスで日本選手権の切符をつかめた理由

――20年9月の富士北麓ワールドトライアルでは100mの結果が12秒台で、日本選手権に出場するための申込資格記録(11秒84)に届かず、「日本一を決める日本選手権の土俵にすら上がれないのは考えられない」と涙されました。どんな心境だったのでしょう。

「こんなに頑張っているのに」などと自分を正当化したことは一度もなくて、周囲がこんなにサポートしてくれているのに、「私のせいで結果が出ない…」という感情が強かったゆえの涙だったと思います。悔しさもあるけれど、それを上回る申し訳なさがありました。

――翌年の日本選手権出場への最後のチャンスとなった21年6月の布勢スプリントの決勝では11秒78を記録し、切符をつかみます。最後の最後でつかめた要因はなんだと思われますか。

20年から21年にかけての冬季シーズンは、山崎先生やトレーナーさんらのサポートによってアキレス腱の調子をよくしていただき、トレーニングができていました。「よし、これなら!」と思って挑んだ21年3月の順天堂大学競技会では100m11秒86、4月に11秒97を記録しました。でも、同月に左大腿筋の肉離れをしてしまって…。周囲に無理を言って5月の東日本実業団選手権に出場しましたが、12秒33で日本選手権の出場権は得られませんでした。やっぱり日本選手権には参加できないかも…と不安でしたが、あのとき(布勢スプリント)はいい追い風が吹いてくれたのと、肉離れをしてからよりも先生やトレーナーさんと練習に取り組んできた期間の方が長かったので、その努力を信じて走ったゆえの11秒7台だったと思います。

――ケガに見舞われ、なかなか結果が出ない中、気持ちが折れなかったのはなぜだと思いますか。

多くのサポートがあったから続けられたのですが、現状に満足をしなかったことが大きいと思います。純粋にもっと速く走りたかったし、東京五輪という目標も達成したかった。自分はもっとやれるし、やり方は1つじゃないと思っていたからこそ、腐らずに続けられたのかなと思います。

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たんぱく質ファーストの生活で、牛肉を意識