世界の七不思議 失われた「マウソロス霊廟」

ナショナルジオグラフィック日本版

紀元前4世紀、カリアの中心都市ハリカルナッソスの港を見下ろしてそびえるマウソロス霊廟。装飾がふんだんにあしらわれた驚異の霊廟は、1700年にわたってその威容を誇っていた(BALAGE BALOGH/SCALA, FLORENCE)

紀元前4世紀にハリカルナッソスを訪れた人々は、目の覚めるような光景に出会ったことだろう。丘のてっぺんからは、山々に抱かれるように広がる都市が見渡せた。そこには街を取り囲む城壁や港、王宮、劇場、神殿までそろっていた。

なかでもひときわ輝きを放っていたのが、街の中央にそびえる霊廟(れいびょう)だ。それは、完成したばかりの墓であり、マウソロス王とその妹であり妻でもあったアルテミシア2世がまつられていた。

周囲にある建物と比べて、その大きさは群を抜いていた。古代の資料によると、高さは43メートル以上(現代の建物の10階建てに近い)あったという。上へ行くにつれて少しずつ細くなる形状によって、その霊廟は、まるで地面から生えてきたかのような印象を与えた。しかし、もっとも目を引いたのは、土台から壁、屋根に至るまで真っ白い大理石で覆われ、地中海の朝のまばゆい日光を浴びて輝いていたことだった。

かつてハリカルナッソスと呼ばれた現トルコの都市ボドルムに、マウソロス霊廟を配置した再現図。現代においても、この建物は街に堂々とそびえ立つことだろう(NEOMAM STUDIOS)

マウソロス霊廟は後に、「世界の七不思議」のひとつに数えられることになる。壮大な建物は400以上の大理石の彫刻に飾られていたほか、屋根の上にはマウソロスとアルテミシアを乗せた4頭立ての戦車(クアドリガ)の彫像があしらわれていた。

カリアの支配者

ハリカルナッソスは、現在のトルコ南西部、カリア地方の中心都市だった。カリア人は独自の言語を話し、独特の宗教儀式をもっていた。好戦的な性質で知られていた彼らは、沿岸に植民地を築いていたギリシャ人から大きな影響を受けた。カリアの領土は紀元前6世紀にペルシャに征服され、紀元前4世紀初頭にはアケメネス朝の属州となった。しかし、これを統治したサトラップ(太守)たちは地元の有力者であり、彼らはしばしば独立の動きを見せ、ペルシャによる支配に常に従順というわけではなかった。

マウソロス霊廟から回収されたこの彫刻は、マウソロスをかたどったものと考えられている(BRITISH MUSUEM/SCALA, FLORENCE)

紀元前377年から353年までサトラップを務めたマウソロスもまた、そうした人物のひとりだった。父ヘカトムヌスの跡を継いだマウソロスは、半独立君主として統治を行い、多くの文献が彼を王という称号で呼んでいる。

マウソロスは同盟を結び、都市を築き、ロードス島を自らの支配下に置いた。当初こそペルシャに忠誠を示したマウソロスだったが、やがてエジプトの支援のもと「サトラップ大反乱」に与するようになる。しかし、反乱の失敗が明らかになってくると、マウソロスは身の安全を優先し、再び君主国ペルシャに同調した。

父ヘカトムヌスは聖地ミラサ(現代のトルコのミラス)の出身であったが、マウソロスは、中心都市をにぎやかな海辺の植民地ハリカルナッソスに移した。エーゲ海のドデカネス諸島に向かって開かれたこの港のほうが、戦略的に都合がいいだろうとの計算からだった。

マウソロスは、ハリカルナッソスの周囲に、発明されたばかりの投石機による攻撃にも十分に耐えられる城壁を巡らせた。岬の上に宮殿を建て、その下には、ひそかに船と兵士を集めることができる港を作った。とはいえ、それもこれも、後に彼の名を不朽のものとする建造物のすばらしさには到底かなわなかった。

霊廟の壮大さは時代を超えて伝えられた。画像は、イタリア、南チロルのノバチェッラ修道院にある1669年制作のフレスコ画(DEA/SCALA, FLORENCE)
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街の中心に据えられた豪壮な墓