病原菌への恐れを利用した独ヒトラー

――19世紀のコレラ禍の騒動には、現代の我々にも共通する点が少なくありません。

「欧州各地で行政・市政側が一方的に指示する感染症対策は、いつでも市民の一部からの反発を招きました。社会の分裂が拡大しては感染症の広がりを防ぐことができません。またパンデミック時には流言飛語がつきまといます。中には医学への不信感を示すうわさもあり、医師が金もうけのために病原菌をまいているとのデマさえ、さやかれました」

「コレラ禍の教訓で、上からの強制ではなく、人々が自主的に防疫方法を選択するように導くべきとの認識が生まれました。そのためには衛生学の最新知識を、一般に知らしめる啓発活動が必要になります。20世紀初頭に日本や欧米で感染予防キャンペーンや衛生博覧会ブームが起こったのは、そのためです。反面、見えざる細菌の感染恐怖はどこまでも残り、人々は呪術的な心性から脱却しきれませんでした

――19世紀に生まれた細菌学は、人々に『細菌恐怖症(バクテリオフォビア)』といった感情も生じさせました。

「バクテリオフォビアを政治的に利用したのが独ナチス党でした。コッホはヒトラーはじめナチスの指導者らが一貫して英雄視した数少ない科学者で、ナチスはコッホの伝記映画まで製作しました。ユダヤ民族をドイツ社会の病原菌と読み替えたのです。細菌学が形作った近代特有の潔癖症的衛生観念は、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)をはじめ、20世紀に生じた民族虐殺・民族浄化にも通底する部分を持っています。見えざる病原菌を過剰に恐れ、根絶に駆り立てる急進化した衛生観念には、そうした危うい強迫症的側面があることは忘れるべきではないでしょう」

(聞き手は松本治人)

村上宏昭
1977年山口県生まれ。2009年に関西大学大学院文学研究科史学専攻修了。独ベルリン自由大学フリードリッヒ・マイネッケ研究所招聘研究員を経て現職。著書に「世代の歴史社会学-近代ドイツの教養・福祉・戦争」

「感染」の社会史-科学と呪術のヨーロッパ近代 (中公選書 121)

著者 : 村上 宏昭
出版 : 中央公論新社
価格 : 2,200 円(税込み)