日経ナショナル ジオグラフィック社

メキシコの抗毒血清が世界的な産業にまで発展したのは、サソリ毒のおかげでもある。1995年にエルネスト・セディージョ大統領(当時)の息子がサソリに刺されて命の危機にさらされると、大統領は医療機関を総動員して、抗毒血清の研究と普及に取り組んだ。

看護師と医師に投与訓練を施し、その製造には連邦政府の補助金を与えた。また、農村地域では治療の選択肢について教育を行った。その努力は報われ、アラゴン氏の調査によると、1990~2007年の間にヘビ毒による死者数は66%減少し、サソリ毒による死者数も83%減少した。

クモ飼育室の管理者サミュエル・カルドソ・アレナス氏。手に持っているのは、メキシコと中米が原産のタランチュラ(PHOTOGRAPH BY MARA SANCHEZ RENERO)

ウマの血液採取

それでも科学者たちは、生物毒が分子レベルでどのように機能するのか、また免疫動物の体内で抗体がどのように作られるのかについて完全に理解しているわけではない。アラゴン氏の研究室は主に、それぞれの種によって異なる抗毒血清を作ることに専念している。

1895年にフランスで抗毒血清が発明されて以来、その製造には主にウマの血液が使われてきた。他の哺乳類の血液を使うことも可能だが、ウマはおとなしく、大量の血液と抗体を持っている。血清を採取するには、まずウマに毒を注射する。最初は少量から始め、少しずつ量を増やしていき、体内で毒に対する免疫をつけさせる。そして6カ月後、その抗体を取り出し、研究室へ送る。

ウマの採血を監督する牧場管理人のへスース・プリド・エルナンデス氏(PHOTOGRAPH BY MARA SANCHEZ RENERO)

メキシコのプエブラ州にあるアラゴン氏のオホ・デ・アグア牧場では、163頭のウマが飼育されている。採血の日、白い防護服を着た技術者が「カリフォルニアーノ」という名のウマを採血小屋へ誘導した。頸部(けいぶ)の剃毛(ていもう)された部分にヨウ素をたっぷりと塗りつけた後、血管を浮きだたせるために首にロープを巻き付けた。

針が刺された瞬間、カリフォルニアーノはびくっと体を震わせたが、すぐに落ち着き、自分の血液が管を通って採血袋にたまっていく間、静かに待っていた。10分で採取された血液の量は5リットル。抗体を豊富に含んだ血漿(けっしょう)が、重力によって分離して採血袋の上に集まる。

袋の中で、重力によって血漿を分離する(PHOTOGRAPH BY MARA SANCHEZ RENERO)

1時間後、血漿が入っていない血液がカリフォルニアーノの体内に戻された。翌週末までには、この血漿から作られた抗毒血清が完成しているはずだ。抗サソリ毒血清の場合、1頭のウマから2000回分以上を製造することができる。アフリカヘビの抗毒血清は、200回分製造できる。アラゴン氏が飼育する163頭のウマで、年間総計35万回分の抗毒血清を製造することが可能だ。

アラゴン氏のウマは全てオスで、去勢を済ませ、丁寧に扱われているという。毎週体を洗い、ビタミン豊富なオーガニックのエサを与えられ、健康診断を受ける。

針を刺された瞬間はわずかに痛みを感じるかもしれないが、すぐにそれも消えるという。「他に手がありません。何か代替案が見つかれば、ウマを使った抗毒血清の製造はやめるつもりです。けれど、今はこのウマが人の命を救っているんです」

分子生物学が、ウマを使わずに抗毒血清を作る技術の向上に一役買ってくれるかもしれない。2020年、オランダの科学者たちは、幹細胞を使ってナミビアサンゴコブラの抗毒血清を作る方法を発見した。インドの科学者も、最近になってコブラのゲノムの全塩基配列を解析することに成功している。

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メキシコが世界の手本に