「飲食店営業許可」廃止に向け、業界団体を設立

だが、商店店頭での販売には思わぬ「伏兵」が潜んでいた。当時の食品販売ルールでは、スチーマーで温めての販売は「飲食店の営業許可が必要」とされ、複雑な施設の設備基準を満たす必要があったという。71年から取り扱いが徐々に広がった肉まん・あんまんだが、行政からこうした指導が入ると、小さな商店では対応しにくかった。

2代目社長の井村二郎氏

井村屋は肉まん・あんまんを開発して事業化した2代目社長の井村二郎氏が業界紙と連携して厚生省(現在の厚生労働省)と掛け合い、飲食店許可の減免を申し入れたという。厚生省は「業界団体を作って、業界の声として問題解決に当たってはどうか」と提案。そこで井村氏が初代理事長となって「日本加温食品協議会」(のちに「加温食品協会」)を立ち上げて、業界全体として品質向上と取扱時の衛生管理の強化活動を始めた。

同協会が中心となってスチーマーの取扱注意書をそろえ、自主・衛生・管理を徹底するための「協会マーク」の張り付けを義務付けるなど、衛生管理を徹底。その活動が浸透したことで、スチーマーを設置して肉まん・あんまんを温めて販売することは「サービス行為」と認定されるようになり、78年7月以降は飲食店の営業許可が不要となった。

こうしてコンビニ各社が店舗で肉まん・あんまんを自由に販売できる素地が整い、コンビニが全国に広がるに伴って肉まん・あんまんの売り上げも増えていった。ちなみにコンビニでは、もう1つの冬の定番商品となった「おでん」の販売も79年ごろから始まったという。井村屋が旗を振った規制緩和は、「アツアツ」のコンビニ食を根付かせていくうえで一役買ったといえるだろう。

日産100万個の生産革新が成長支える

コンビニ販売の急伸にともなって、生産面でも改革が必要だった。花井氏は「64年の参入当初は手包みで作っていましたが、スチーマー販売が始まるとすぐに生産が追いつかない状況になりました。そこで、食品製造機械メーカーのレオン自動機と組んで『包あん機』の開発に取り組みました」と話す。

レオン自動機は、和菓子の職人だった創業者の林虎彦氏が、大量注文が入ったときに「和菓子職人がアンコを包むだけの作業をしているのは生産性が低く、創造性が生かせず、将来は職人になりたい人がいなくなる」と危惧して、63年にあんを包む機械製造を始めたのが始まりだ。生地であんを包むのは、井村屋の肉まん・あんまんも同じということで、開発に協力したという。

肉まん・あんまんの製造工程

井村屋は69年に9台の自動包あん機を工場に導入して日産60万個体制を確立。だが、それでも生産が追いつかなくなり、70年に10台を追加して同100万個の生産体制を整えた。これが71年からの電気スチーマーによる店頭販売の全国展開を支えた。

コンビニで肉まん・あんまんが並び始めて各社の競争が激しくなると、徐々に中身の「あん」の味が多様化していった。井村屋で長く商品開発に携わってきた花井氏は「70年代後半からいろいろな味が出始め、2010年ごろまでは毎年、新しいトレンドを予測して変わり種まんを作り出す競争が起こりました」と解説する。

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「変わり種まん」を累計500種類も