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神奈川県藤沢市に住み、起業したHiRAKUでは、湘南エリアでのソーシャルイノベーション活動にも取り組む。自社ホームページ用の写真も同市の砂浜で撮影した(2019年9月)

神奈川県藤沢市に住み、起業したHiRAKUでは、湘南エリアでのソーシャルイノベーション活動にも取り組む。自社ホームページ用の写真も同市の砂浜で撮影した(2019年9月)

ラグビー日本代表のヘッドコーチを務めた名将エディー・ジョーンズ氏をして「最高のキャプテン」と言わしめた元日本代表主将の広瀬俊朗氏(40)。大阪府立北野高校(大阪市)から慶応義塾大、東芝、さらに日本代表へとステップを進めるたびに、そのリーダーシップを進化させてきた。現役引退後は起業し、自身が一つのモデルを提示しながらアスリートのセカンドキャリア支援や次世代の教育に情熱を燃やしている。

2000年、大阪府立北野高校から指定校推薦で慶応義塾大学理工学部機械工学科に入学。蹴球部(ラグビー部)ではキャプテンを務めた。

蹴球部の部員は文系学部が多く、理工学部は少数派でした。理工は実験も多いので練習との両立はそれなりに大変でしたが、キャンパスと練習場のどちらも横浜市の日吉にあり、すべての生活が日吉で完結できたので環境としては恵まれていたと思います。3年生からは機械工学の研究室に入り、電車の架線とパンタグラフの接触に関する研究をしました。勉強は面白かったので、大学院進学を考えたこともありました。

蹴球部では4年生でキャプテンを務めました。同じキャプテンでも、北野高校という地方の公立高校であまり強くないチームと、慶応という日本中からメンバーが集まり全国一を狙うチームとでは求められるものが全く違いました。メンバー一人ひとりのバックグラウンドも違いますし、内部進学生と外部から入ったメンバーも入り交じった120人を、リーダーとしてまとめるのは正直大変でした。でも、その環境でどうすればそれぞれの違いを受け入れながらチームとしてまとまっていけるのかを必死に考え、試行錯誤を繰り返したことは、僕の人生においてすごくいいチャレンジだったと思います。

監督が四六時中ついているチームではなかったので、僕は「自分たちで考えて工夫し、チャレンジするチーム」を目指しました。指示された通りにやるのと、自分たちで分析して戦略を考えながらやるのとでは腹落ち度が全然違います。いろいろ資料を作ってどんなラグビーをしたいかを皆で言語化するようなこともしていました。ただ実績としては、僕がキャプテンを務めた代は全国大会の1回戦で、後に優勝することになる関東学院と戦って大敗し、早々に引退が決まってしまいました。

でもその試合に負けたからこそ、僕は社会人でもラグビーを続けようと決めました。やりたいことができなかった悔しさがありましたし、まだまだラグビーを通じて、自分が見ていない世界があるんじゃないかと思ったのです。それにラグビー選手として生きられるのはせいぜい35歳まで。人生100年と考えると残りの65年はラグビーなしの人生になるので、それならラグビーができる間はラグビーに集中しないと後悔するという思いもありました。

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