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地下鉄道・水力発電所…知られざるナイアガラ

Discover Canada Sponsored byカナダ観光局

カナダ リジェネラティブな旅(1)【PR】

2022.6.30

ナイアガラの滝のカナダ側は美しい弓なりの形で有名。滝の右隣に「ナイアガラパークス水力発電所」がある(写真はナイアガラフォールズ観光局提供)

サステナブル(持続可能)な旅行への関心が高まっている。新型コロナウイルス禍による旅行制限をきっかけに、観光客が受け入れ地域の環境保全の重要性にも目を向け始めているからだ。そうしたなか、従来サステナブルな観光を実践してきたカナダが注目されている。大自然との共生や同国の特徴である多様性を実感する「地域と観光客がともに満足できる観光」を通じて、従来にない体験ができる。「リジェネラティブ・ツーリズム(再生型観光)」を進めるカナダの旅をお届けする。

カナダの代表的な観光地、ナイアガラの滝。米国との国境にそびえたち、幅675メートル、落差は52メートルに及ぶ。周囲にはごう音が響き渡り、かつてこの地に住んでいた先住民族が呼んだ「雷とどろく水」がその語源になったことにもうなずける。訪れる観光客は年間1400万人に達する。しかし、ナイアガラの滝を中心にしたこの地域が壮大な景観だけでなく、自然との共生や多様性といった、カナダの国そのものを象徴していることを知る人はまだ多くないだろう。知られざるナイアガラのストーリーを紹介する。

地下鉄道―自由を求めてナイアガラを目指した黒人たち

19世紀初め、ロンドンに世界最初の地下鉄が開業する以前に米国南部とカナダ・オンタリオ州ナイアガラ地域には「地下鉄道」が敷かれていた――。もちろん、本物の地下鉄でもトンネルでもない。奴隷制が認められていた米国南部から米国北部やカナダのナイアガラ地域へ自由を求めて逃れるために、黒人が利用した逃亡路のことだ。逃亡する黒人を「乗客」、行く先々で黒人をかくまう家を「停車駅」、黒人を誘導し助ける人を「車掌」という符丁で呼んだ。1800年から1865年に米国からカナダに逃げてきた黒人は3万〜4万人に達した。これは同時にカナダへの本格的な黒人の移民の始まりでもあった。

レズリー・ハーパーさんの先祖もそうした黒人移民だった。自由を求めてカナダに渡った黒人の歴史を観光客らに伝えようと、2004年に「ナイアガラ・バウンド・ツアー」を設立。「地下鉄道の終着駅」といわれる、ナイアガラ川の入り口にあるフォートエリーでナイアガラ地域の黒人の歴史を伝えている。

「この地は米国から逃れてきた黒人が初めて自由を感じられた場所です」。ハーパーさんが説明を始める。フォートエリーは米国とカナダの国境、エリー湖の東端にあり、湖を挟んだ先には米バッファローの街並みがはっきりと見える。米国から逃れてきた黒人のなかには、大人だけでなく子どももいた。逃亡した者を捕まえて賞金を稼ぐバウンティハンターの目を逃れるためにも、移動は夜間が多かった。あたりには野生動物が多くすみ、その鳴き声が子どもたちを怖がらせた。米国とカナダを結ぶ橋はあったものの、見つかるのを恐れ小舟などで川を渡った人が多かったという。

「ナイアガラ地域の黒人の歴史を広く伝えることは私の生涯をかけた使命」と話すレズリー・ハーパーさん

米国の黒人奴隷の半生を描いた小説「アンクル・トムの小屋」のモデルになった、ジョサイア・ヘンソンもこの「地下鉄道」を利用してカナダに渡ったとみられる。また、米国で新20ドル札の顔として検討されている、黒人女性で奴隷解放運動家のハリエット・タブマンも「地下鉄道」を利用して、多くの黒人をカナダに逃してきた。

フォートエリーは、黒人の権利確立を目指した「ナイアガラ運動」が始まった地でもある。ハーパーさんによると、「ナイアガラ運動」の名前の由来は、黒人のそれまでのつらい歴史を、ナイアガラ川の速い流れに乗せて流してしまおうという願いがあった。米国の観光客の多くは公民権運動が米国ではなくカナダから始まったことを知るととても驚き、なかには感激のあまり、大地にキスをする人もいるという。

奴隷制度は廃止された。しかし、「ロシアによる侵攻で周辺国に逃げたウクライナ人など避難を余儀なくされている人々は多くいる」と現在でもなお理不尽な環境で苦しむ世界中の人々に思いを寄せる。

カナダは人口の5人に1人が外国生まれという移民大国。「苦難の末にこの地に渡った黒人を先祖に持つカナダ人であることをとても誇りに思う」とハーパーさん。だからこそ「ナイアガラ地域の黒人の歴史を広く伝えることは私の生涯をかけた使命です」と話す。