男性たちが着けた半仮面も一般的ではあったが、その多くは白いものだった。マスケラと呼ばれるこの仮面は、着用の際には、黒い三角帽子の下に押し込んで固定した。パリやロンドンの場合と同じく、ベネチアでも日常生活で仮面が使われるようになり、高度に階層化された社会の中で、劇場、カフェ、市場、公園などにおける社会的交流が促された。

性労働者の影響、三都それぞれの結末
しかし仮面の着用が広がるにつれ、劇場で自らの高潔さを守る手段としてこれを利用していた上流階級の女性たちに、性労働者たちが加わるようになった。彼女たちが仮面を着けるのは、自らの身元を隠すためだけでなく、劇場や賭博場で貴族のような格好をして周囲の好奇心を煽(あお)るためだった。その結果、夜の娯楽の場は、だれが上流社会に属し、だれがそうでないのかを推測するゲームに変わってしまった。
17世紀末には、「ビザード」という英単語は売春婦を表すスラングになっていた。英国のアン女王は、ビザードは不品行を助長すると宣言し、1704年に劇場での着用を禁止した。仮面にまつわる社会的な汚名によって、ロンドンでの高級ファッションとしての仮面の人気は低下していった。

ベネチアの場合、仮面を着ける者は、礼節や社会的地位も重要視されていた。1608年には、仮面をつけた性労働者が、「誠実な」女性のふりをした罪で処罰を受けることもあった。「評判の悪い女性や公娼(こうしょう)」が仮面を着けているところを発見された場合、彼女たちはサンマルコ広場の入り口にある2本の柱の間に、2時間にわたって鎖でつながれることになった。
それから1世紀の後、ベネチア政府はこの方針を転換し、劇場や賭博場にいる性労働者に仮面の着用を義務付けた。さらに1776年、ベネチアの十人評議会は「本来はまっとうであるべき階級の人々による危険で不謹慎な行い」への対処として、すべての貴族に仮面の着用を義務付けた。
ベネチアの文化はこのころにはすでに、四旬節前に行われるカーニバルの影響によって、仮面とは切っても切り離せないものとなっていた。精巧な細工が施された仮面の数々は、ベネチアと強く結びついたカーニバルという伝統の基礎を築いた。
一方パリでは、流行の変化によって、18世紀半ばには仮面はさほど人気がなくなり、女性たちは別の形で自由を謳歌するようになっていった。以下はデジャン氏がパリについて書いた文だが、これは当時のパリに限らず、仮面というファッション全般にも当てはまるだろう。「モダンな都市は、よりカジュアルで、よりモダンな方法でそこを訪れたいという欲求を生み出したのです」
(文 BRADEN PHILLIPS、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年9月25日付]