問いかける「祖母の後ろ姿」 介護は自分のためにも

田舎で一人暮らしをしていた祖母が、東京の親戚の家で暮らすようになったのだと知らされたのは、私が25歳の時だったと思う。朝起きると着物に着替え、草履で山道を20分ほど登っては、中腹にある温泉でひと風呂浴びるのを日課にしていた。そんなふうに足も心臓も丈夫な人だから、東京に引っ越せばなおさら達者に歩き回って、はつらつと過ごすに違いないと思っていた。だが数年後、家で転んで入院し、そのまま病院で一生を終えた。

引っ越してからは、あまり外出をしなくなっていたと後で聞いた。友達もいなかった。あのまま田舎で一人暮らしをしていたら、元気に温泉に通っていただろうか? 記憶の中で、きゃしゃな祖母の後ろ姿が今も私に問いかけてくる。

その年、私は仕事を休んで介護関連の資格を取るために学校に通った。知識だけでわかったつもりにならないように。社会で実際に高齢者と関わるために、まずホームヘルパー2級の資格を取得し、地域の社会福祉協議会に属して在宅介護の実践経験を積ませていただいた。

学校の恩師は、高齢者の尊厳について何度も話してくれた。お世話していても相手は子供ではない。一人一人の人生経験を軽んじてはならないと。だが一方で、高齢になれば話の理解力や記憶力が衰えてくるのも当たり前のことで、生活を改善するための話し合いを何度も丁寧に繰り返しても理解してもらえるとは限らず、理想と現実のギャップはいつも目の前に横たわる。金銭的な問題もある。つくづく、介護とはマニュアルではなく「人対人」の文学なのだと思う。

誰でもある程度の年齢になれば、親の介護について家族で話し合う機会があるだろう。その時、子供たちにはそれぞれ家庭があり、仕事が忙しかったり、子育て中だったりと、すでに日々の時間感覚が違っているので、やることは見えていても実行するまでには時間が必要だ。親本人たちにも希望がある。在宅介護や訪問看護を頼もうと思っても、地域に人員が不足していて、高齢化政策が間に合っていないことを実感する。その間にも親が転んでけがをする。