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地方自治体の教育行政の責任者である教育長には、元校長などが就くことが多く、市町村だと平均年齢は64.1歳(2019年度)。そんな中、2020年に文部科学省の官僚から35歳の若さで神奈川県鎌倉市の教育長に就任、「いざ鎌倉」と挑んだのが岩岡寛人氏(37)だ。同氏は兵庫県の出身だが、隣の岡山県内トップの進学校、岡山白陵中・高(岡山県赤磐市)で6年間寮生活を送った。かつて楽天グループの三木谷浩史社長も同校の寮で生活したが、厳しさに耐えかねて中2で自主退学したという。岩岡氏はそこでどんな経験をし、何を学んだのか。

兵庫県芦屋市生まれ。中学受験で岡山白陵中・高に進学した。同校は1976年に設立された私立の中高一貫校。創立者の三木省吾氏は、旧制姫路高校から京都帝大に進んだ教育者で、旧制高校の伝統を受け継ぐ学校として白陵中・高(兵庫県高砂市)と岡山白陵を開校した。「白陵」の名は旧制姫路高校の寄宿舎「白陵寮」にちなんでつけられたという。

「芦屋=セレブの街」というイメージが強いので、芦屋出身というと「おぼっちゃま」と勘違いされることもあるのですが、南北に細長い芦屋市は北と南でかなり雰囲気が異なり、私が育ったのは庶民的な南側のエリアです。1970年代に湾岸の埋め立て地に建てられた芦屋浜団地で両親と兄の4人家族で暮らしていました。両親は当時勤務医でとても忙しく、特に父は心臓血管外科が専門だったため夜間も週末もポケベルで呼び出されるとすぐに病院に駆けつけるような生活でしたから、小さい頃、親子でのんびり団らんするようなことは少なかったように思います。

中学受験は自分で希望しました。家を出て寮生活をしたかったのです。小4で塾に入ったのですが、宿題が嫌でサボっていたら父からやめさせられてしまい、仕方がないので参考書や問題集を使って自分で勉強しました。実は甲陽学院(兵庫県西宮市)も志望していましたが不合格だったので、寮がある岡山白陵に行くことにしました。

当時は通学生が8割強、寮生が全体の2割弱くらいで西日本を中心にいろんな県から生徒が集まっていました。校舎は非常に自然豊かな環境の中、というか、はっきり言ってものすごく田舎にあります。

岩岡寛人・鎌倉市教育長

岩岡寛人・鎌倉市教育長

「勉学に集中できるように」と創設者が沿線で一番乗降客の少ない駅を選んだそうで、今はどうかわかりませんが、私が通っていた頃は学校から一番近い信号まで自転車で20分くらいかかりました。電車も岡山方面行きが30分に1本、姫路方面行きは1時間に1本しかなく、特に寮生は通学もありませんから、まさに仙人のような環境で6年間を過ごすことになりました。

特に寮は規律が重んじられていて、入寮初日は「本当にここで6年間暮らせるだろうか」と不安に思ったことを覚えています。というのも、起床時間の朝7時20分になると寮の監督である「寮監」が全寮放送で「点呼集合、点呼集合」と叫ぶんです。すると寮生が洗面所の前にバーっと駆けていくので、私もわけもわからず走りました。

集合すると今度は「1年総員20何名。番号!」「いち、にい、さん、し、ごー、ろく……点呼終わり!」「では今日も1日頑張りなさい」というやりとりがあって、掃除をして朝食、あっという間に登校。まるで軍隊のようで、圧倒されました。

授業時間は、最近は短くなったようですが、当時は70分×5コマと長く、下校後、寮生は夕食、風呂を済ませて夜7時30分からは「学習時間」と決まっていました。全員、「学習室」という大部屋に集められ1時間半を2クール、合計3時間机に向かうのです。その後は歯を磨いて午後11時20分には就寝。土曜日だけは学習時間が1時間半になるので、みんなその日を心待ちにしていました。

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