アイスクリームの「穴埋め」でスタート

井村屋が肉まん・あんまんに参入したのは64年だった。「冬場に売れなくなるアイスクリーム商品の流通経路を、どうにか活用したいとの思いからでした」と花井氏は解説する。

井村屋は前年の63年にアイスクリーム事業へ本格参入。現在は井村屋といえば「あずきバー」が氷菓の人気商品だが、あずきバーの登場は73年だった。つまり、肉まん・あんまんのほうがずっと「先輩」にあたる。

アイスクリーム事業で最初に売り出したのは、チョコレートでコーティングしたタイプや「10円モナカ」など。和菓子系の商品では認知度が高かったが、アイスクリーム分野ではまだあまり知られておらず、当初は苦戦したようだ。

63年ごろに売り出した井村屋の「バイバイバー」

だが、64年の東京五輪にちなんだ金・銀・銅メダルの景品が当たる「メダルバー」や、角張った形の「バイバイバー」を相次いで投入。徐々に地元の中京エリアや関西で売れるようになっていたという。

当時は小さな商店や駄菓子屋が販路の中心だった。そこに冷凍ケースを貸与して置いてもらい、アイスクリーム・氷菓商品を売っていた。だが、冷凍ケースは冬になると無用の長物と化す。その冬場に売ってもらえる商品として、肉まん・あんまんに目をつけた。

冬に売れそうな食べ物にはほかにもいろいろあるのに、なぜ肉まん・あんまんを選んだのか。実は理由がある。井村屋の創業は明治期の1896年で、当初の主力商品は「ようかん」だった。アズキ、砂糖の入手が難しくなった戦時下を経て、戦後にまず小麦粉を使った「乾パン」から製造・販売を始めた。配給の対象だったので、物資事情のよくなかった当時でも入手しやすかったからだ。

食料原料の調達事情が改善されると、小麦粉でビスケットを製品化し、キャラメルやドロップの製造も始めた。ようかん製造の復活は、砂糖の販売が解禁された51年まで待たねばならなかったが、2代目社長の井村二郎氏はビタミンB1・B2やカルシウムを入れたようかんを開発し、人気を集めたという。

井村屋の花井雅紀・開発部長

花井氏は「2代目社長は製菓学校に通ったこともあり、配給小麦粉を使ってパンの受託製造もしていたそうです。小麦粉の扱いには慣れていたうえ、新しい商品を作り出すことに熱心だったようです」と話す。当時の中華まんは、しょうゆなどのタレをつけ、カラシと一緒に食べることが多かった。55年には山崎製パンが中華まんに参入し、中村屋とともに二大勢力となりつつあった。64年に参入した井村屋は後発組にあたる。

「2代目社長は競争相手と同じことはせず、特色のある商品価値を消費者に知ってもらうことを重視して開発していたようです」と花井氏は振り返る。日本人の舌になじむ味にしようと二郎氏は考え、肉まんは具材をそのまま食べてもおいしい内容に工夫。同時に、皮部分のうまさにもこだわり、一度発酵させてうまみを引き出したという。

苦心して開発した肉まん・あんまんを、最初は冷凍品として冷凍ケースに入れて売ってもらった。だが、客の反応は鈍かった。「当時はまだ、冷凍庫付き冷蔵庫が家庭に普及する前でした。買ってすぐに食べる人しか買わなかったでしょう。そもそもまだメジャーな食べ物でもありませんでした」(花井氏)。新規の事業は振るわず、64年の初年度売上高は150万円弱にとどまり、その後もしばらく低空飛行が続いた。

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スチーマーの開発・改良で売り上げ急伸