このときプレストウッドはスマートフォンでこの場面を録画していた。その動画を見ると、広い研究室で、2人の大人が不安げに相手の表情をうかがいながら向き合っている。まるで、初めてダンスを踊ろうとしている思春期の少年と少女のようだ。プレストウッドは足元に目を落とし、それからおもむろに義手の指に視線を移して、にっこり笑うと、右手でエイミーに義手を指さした。さあ、さわってごらん。
触覚は「人類最古の言語」
触覚に関する論文は続々と発表され、そこには新たな知見や推論、未来に向けた素晴らしい提案が記されている。だが、ここで伝えたいのはプレストウッドが撮影したわずか4秒ほどの出来事だ。
エイミーが義手の左手をそっと握ると、プレストウッドは、はじかれたように顔を上げた。目を大きく見開き、口をぽかんと開けて、まっすぐ前を見つめるばかり。エイミーはそんな彼を見守っていたが、当のプレストウッドは虚空を凝視したままだった。
「感じたんですよ」。後日、プレストウッドはそう話してくれた。「ちゃんと反応があり、妻に触れている実感があった。不覚にも泣いてしまいました。妻も泣いていたんじゃないかな」
そう、エイミーは泣いていた。プレストウッドが動画を見せてくれた日は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックの真っただ中。世界中の人々が互いへの接し方、触れ合い方を探っているような日々だった。
大半の人は健康を保つために、他者の肉体的な存在を必要としている。他者との触れ合いを通してもたらされる安らぎが、健康の維持に欠かせないのだ。私たちの多くはそれを本能的に知っているようだが、神経学者と心理学者は心拍数やホルモンの濃度といった生物学的な指標を用いて、この通説を説明してきた。
その一例が以下の文章だ。学術論文のようにも思えるが、出典は後ほど説明する。
触れることは、人間の基本的な欲求である社会的交流の基本的な側面である......ストレスが多い体験の最中に人と触れ合うと、さわられた人物は心が安らぎ......ストレスホルモンの濃度が低下し......視床下部で生産される神経ペプチドの一種、オキシトシンの分泌が促されることがわかっている......オキシトシン濃度の上昇は、信頼の高まり、協調的な行動、見知らぬ人との共有、他者の感情を読み取る能力の向上、より建設的な争いの解決に関連すると考えられている。
これは、独房監禁の違憲性を訴えるために、米国の連邦裁判所に提出された意見書の一部だ。弁護団がカリフォルニア州の服役者たちの代理人として訴訟を起こし、服役者を何年も独房に隔離する行為は、残酷で異常な刑罰を禁じた合衆国憲法に違反すると主張した。この意見書を執筆したのは、15年以上にわたって触覚の研究に携わってきた米カリフォルニア大学バークレー校の心理学教授、ダッカー・ケルトナーである。「触覚は社会的なつながりをつくる人類最古の言語、ひょっとすると最も基本的な言語です」とケルトナーは話す。
それはつまり、ヒトが声による言語を獲得する以前に「触覚によるコミュニケーション」を行っていた、ということだ。子どもの発達過程でも、胎児が最初に獲得する感覚は触覚であることがわかっている。触覚は出生時と生後数カ月の間、新生児にとって最も重要な感覚であり、最も発達した感覚なのだ。
(文 シンシア・ゴーニー、写真 リン・ジョンソン、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版 2022年6月号の記事を再構成]