3年以上にわたって湿地の健康状態を調査してきたパドバ大学の研究チームは、その先行きは楽観できないと言う。ベネチアとその遺産の保護が重要なのは当然だが、環境保護家たちは、そのために潟の死が目前に迫っていると警告している。人間が堆積物の流動性を阻害した結果、塩性湿地は現在40平方キロメートルしか残されていない。17世紀の260平方キロメートルと比べると、6分の1にまで縮小したことになる。
塩性湿地の劣化
1920年代、イタリアはベネチアの潟に面した地域を、国内有数の工業地帯へと変貌させた。製造工場や製油所が次々に建設され、潟には大型船が通航できるように深い水路が掘られた。
工場用水として、堆積物から膨大な量の地下水を引き上げた結果、20世紀にベネチアの地盤は11センチも沈下した。しかも同時期に、アドリア海の海面は10センチ上昇した。地下水の採取を止めた後も、地盤沈下は少しずつ進行している。

環境保護家たちは、ベネチアを守るために設置したモーゼの水門が、結果として、その街を15世紀もの間支えてきた生態系そのものを完全に破壊してしまうのではないかと恐れている。
特に懸念されるのは、湿地と潮流との相互作用への影響だ。パドバ大学のチームは、2020年10月3日からその冬にかけて実施された15回の水門試験中に、サンフェリーチェとそのほか2カ所の湿地で広範囲なデータを集めた。そして、水門の稼働によって、湿地の植物に供給される堆積物が年間25%減少してしまう可能性があることを示した。自然な潮の干満によって運ばれる堆積物が既存の潟を築いていることを考えると、このままではいつか潟そのものがなくなってしまう恐れがある。
「もちろん、ベネチアの街と住宅地域を高潮から守ることが重要なのは言うまでもありません。私たちも、これに反対する気は全くありません」と、ダルポアス氏は言う。ただ、水門を上げる基準を、現行の1メートルの潮位上昇から1.3メートルに引き上げることを求めている。そうするだけで、失われる堆積物の量を、持続可能なラインまで引き下げることができるという。
特別委員長のスピッツ氏は、潮位の基準はまだ最終決定ではないとし、試運転の目的は水門を上げる最適なタイミングを見定めることだという。「ただ、ベネチアは大変繊細な都市であり、歴史的建造物や芸術、文化の宝庫です。2019年11月に起こった災害を再び繰り返すことはできません」
1.3メートルでも洪水は起こり、街の半分に被害が及ぶ可能性があることは、ダルポアス氏も認めている。「けれどその多くは、補完的な措置によって対応することが可能です。例えば、サンマルコ広場で恒久的な排水機能を整備したり、低地の歩道を高くしたりするといった対策が考えられます」

モーゼ計画に莫大な公的予算と数十年もの歳月を投じた後で、ベネチアを守ることができないとなれば、政治的な大論争が巻き起こることは間違いない。しかし、湿地の繊細な健全性が損なわれれば、今度は別の壊滅的な悲劇を招くことになる。「水門があまりに頻繁に使われれば、湿地は死んでしまうでしょう」と、ダルポアス氏は警告する。
よどんだ死の潟に囲まれたベネチアの街など、想像すらしたくない。
1500年の歴史をもつ魅惑の都市は今、現代の悪夢の下に水没しようとしている。2020年3月4日付で学術誌「Oceanography」に発表された論文は、海面上昇と気候変動の危機に直面している場所はほかにもあるものの、世界的に知られたベネチアでの出来事は、これから起こることの予兆として受け止められるだろうと指摘する。そして、そのベネチアが存続の危機に際して断固とした対応を取ることが、「世界の行動を促す手本になるかもしれない」と期待している。

(文 FRANK VIVIANO、写真 MARCO ZORZANELLO、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年8月7日付]