日経ナショナル ジオグラフィック社

2020年10月3日、潮位が1.2メートルを超えた時にモーゼ・システムは初めて使用され、劇的な効果を示した。それまで高潮のたびに水と闘っていたベネチアが驚くほど乾いた状態を保ち、これをきっかけに計画に対する懐疑的な意見はほとんど聞かれなくなった。

それから20カ月の間に実施された33回の試運転も、すべて成功を収めた。1回の稼働時間は、30~92分ほどだった。「防潮堰の準備は整いました。モーゼは必ずベネチアを守ってくれるでしょう」。モーゼ計画の特別委員長エリザベッタ・スピッツ氏は、2022年5月16日のナショナル ジオグラフィックのインタビューでそう話していた。

1970年に、ベネチア湾に建設されたアクアアルタ研究タワー (PHOTOGRAPH BY MARCO ZORZANELLO)

街を水害から守るための代償

一方で、代償も浮かび上がってきた。

ベネチアの潟の北側の部分は、長さ20キロメートルの細長い半島によってアドリア海と隔てられている。5月の良く晴れた朝、その先端近くにあるプンタ・サッビオーニ埠頭で、私(筆者のFrank Viviano氏)はイタリア、パドバ大学の海洋研究者4人に出迎えられた。ここからすぐ西のサンテラズモ島では、ベネチアに供給される最高級のアーティチョーク、ズッキーニ、トマトが栽培されている。

私たちはレンタルした小さな船に乗り、サンフェリーチェの「塩性湿地」に向かった。干潮時のサンフェリーチェには、アッケシソウやスパルティナ、イソマツなど河口域の植物が風に吹かれて揺れている。水が引いた潟には細い水路が網目模様を作り、その中を小魚が泳ぎ、カニが歩いている。夕方には潟全体が冠水すると、動植物は、自身と潟の健康に必要な栄養をせっせと取り込む。

潟を取り巻く塩性湿地。不規則な形の土手と、くねくねと曲がった水路は、高潮を吸収する機能を持つ (PHOTOGRAPH BY MARCO ZORZANELLO)

モーゼ・システムは、この塩性の自然環境を脅かそうとしている。潟に生育する「塩生植物」は海水に強く、一日の半分を陸で、半分を水中ですごし、潮汐(ちょうせき)によって運ばれてくる堆積物から栄養をもらっている。堆積物は植物の成長を促し、その過程で砂州や潟を補強し、その存在そのものを支えている。「塩性湿地は生物多様性のホットスポットです」と、環境工学者でチームリーダーのアンドレア・ダルポアス氏は言う。水門が上がるとこの堆積物の流れが遮断され、生態系が損なわれ、潟は死滅してしまう恐れがある。加えて、潟は自然が気候変動と闘うための重要な役割も担っている。

地質学者のマッシミリアーノ・ギナッシ氏によると、潟は驚くほど効果的に二酸化炭素を取り込むことができるという。「1平方キロメートルのベネチアの潟は、年間370トンの二酸化炭素を地球の大気から除去することができます。これは、アマゾンなどの熱帯森林が取り込む量の50倍です」

そう言いながら、ギナッシ氏は円筒形の器具を、スポンジのように柔らかい土に差し込んだ。様々な分野の専門家を集めてチームを結成したのは「科学と工学の壁を取り払って、多様な視点を取り入れ、よりよい結果を出すためです」と、ダルポアス氏は語る。

ギナッシ氏は、体重をかけて筒をひねりながら押し込んだ後、慎重にそれを引き上げた。筒の中には、湿地のコアサンプルがぎっしりと詰まっている。氏はその下の方の縞(しま)模様を指さして「ここが、およそ500年前のサンフェリーチェです」と言った。「湿地の変遷と、そこに生息していた動植物の詳細が記録されています。上の方の、もっと最近の部分には植物の残骸がたくさん詰まっていて、それを高潮によって運ばれてきた泥が覆っています。ここから、炭素抽出の過程を見ることができます」

海洋堆積物学が専門のギナッシ氏は、コアサンプルを採取したらその場で大部分を読み取ることができる。その後サンプルを研究室に持ち帰り、最先端の土壌分析装置を使ってさらに詳しく分析する。

スパルティナ属の外来植物。2000年初期に初めてベネチアの潟で発見された。これが生態系にとって有益かどうかはまだはっきりしていない (PHOTOGRAPH BY MARCO ZORZANELLO)
タツノオトシゴは、外来種のアサリの養殖によって大幅に数が減少したが、後に潟に再導入された。写真は、博物館に保管されている標本 (PHOTOGRAPH BY MARCO ZORZANELLO)
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塩性湿地の劣化