キャリアは意思で描けるものではない、と思っていた
「常に成長を」と話す現在とは対照的に、そのキャリアは「受け身」のスタートだった。新卒で入社したのは、男女雇用機会均等法施行翌年の1987年のこと。育児休業も法制化前で、当時の社会では結婚を機に退職する「寿退社」も珍しくなかった。
私は理系です。大学は薬学部に進み、薬剤師の資格も取得しました。ただ、それは母に「女性は免許を持っていた方が何かと便利よ」と助言を受けたからで、医療の世界で何かしたいといった考えはなかった。

薬の知識が生かせること、製品が身近で親しみが持てたこと、当時から「キャリアチェンジがしやすい」と言われていたことなどでライオンに入社しました。
入社前後のライフイベントも踏まえたキャリア展望ですか? 30歳くらいまでに第1子を授かるといいな、とは思っていました。
ただ、その頃は「いつか結婚したら相手に転勤があるのかもしれない」とか、「妊娠・出産したらどうなるんだろう」とか分からないことだらけ。仕事については「自分のキャリアは自分の意思で描いていけるものではない」としか思えなかった。その分、「何か思い立ったら、すぐにやろう。次にいつチャンスがあるか分からない」と考えるようになりました。私、せっかちなんです(苦笑)。
働きがいを求めて「転職未遂」を2度経験
巡り合わせの妙というべきか。そんな「思い立ったら、すぐにやろう」という発想が当人を図らずも自身の「働きがい」向上のための行動へと駆り立てていく。
社内でも皆、知っていますが、実は2度の「転職未遂」を起こしています(苦笑)。1度目は入社3年目の頃。夫と出会う場ともなった、最初に配属された研究所時代です。界面活性剤の研究に携わっていました。
あのう、ガラスの表面が滑らかになると一定の反射率が保たれるので、とてもきれいに見えるんですね。ところが、ごく少量でも界面活性剤の拭き残りが生じると汚く見えてしまう。そこで拭き残りのないガラス用洗剤の研究をしていた頃です。実験のキホンというべきことですが日々、ガラスを「正常」に、つまり、きれいな状態にする作業が必要だったんです。それが、どうも性に合わなかった。
そもそも几帳面(きちょうめん)ではないし、研究者の道を究めたい訳でもない。「自分に関心があるのは共感を持って伝えることだなぁ」と思っていたときに、学生時代には知らなかった、広報という仕事に興味を持って……。当時はまだインターネットが普及する前で、新聞に求人広告の欄が設けられていました。そこでPR会社の求人を見つけて転職を決意しました。
いまより終身雇用が色濃く、転職は「仕事が続かない」など負のイメージも持たれがちだった時代。若い社員の行く末を心配したところもあるのだろう。小池さんの直属の上司から彼女の転職意向を聞いた当時の研究所長は、広報部長(当時)の出張先まで早速、足を運んだ。そして、異動希望の研究員がいると相談してくれたことを後になって知る。
同僚にも上司にも本当に恵まれました。私はこのライオンという会社が大好きです。最終的に当時の広報部長が面談してくださり、「PR会社のように社外からではなく、まずは社内から広報をやってみませんか」とおっしゃってくださって……。それから数カ月後に広報への異動が実現しました。製品や研究の広報を担当しました。

2度目の転職未遂は、40代で初めてマーケティング部門に異動して、しばらく後のことです。
16年間在籍した広報は本当に楽しくて、天職と思えた。異動は全く希望していませんでした。ところが、健康食品を巡る広報での仕事ぶりなどをみて「マーケはどうか」と引っ張ってくださった方がいらっしゃいまして。主任昇格の時期で、管理職に仲間入りするにあたり、スキルを広げる狙いもあったかもしれません。
けれど、未経験でマーケティング理論も分からなければ、事業計画を立てたり薬事承認を経て製品を世に出したりする手続きも知らない。そうしたあれこれも遠因となって、また転職を考えるように。ヘルス&ホームケア事業本部薬品事業部の商品開発担当時代のことです。
今度は、組織を活性化するコンサルタントに転職したいと考えました。大企業病というのでしょうか、どうも元気がない組織だったんですね。(組織コンサルへの転職を考えたのは)それも関係しているかもしれません。
ちょっと話を横道にそらします。私は米ギャラップ社が認定する「ストレングスコーチ」の資格を持っているんですね。このため、社内でも役職とは別に、個人としてワークショップなどを開いています。そこでも実感するのですが、人間、自分の原動力となるものに基づく話題のときって、語気が荒くなって自然に鼻の穴が大きくなるんですよ。そういうときのエネルギーはとてつもなく大きいし、生産性も高くなる。
「皆がそういう力を自然に発揮できる職場になるように取り組んでみたい」と考えた訳です。その当時から、魅力ある職場づくりへの課題意識はずっと持っていました。結果的に転職を踏みとどまったのは、1回目と同じく「外ではなく、ここでやってみよう」と考えを変えたことでした。
長年、広報に携わるなかで築き上げたのは、「共感から入るのが自分のプレースタイル」だということ。そんな自分の基盤を生かすうえでも、まずは自らが周囲に働きかけて空気感を少しでも変えられないか。それができれば、部門全体にもプラスの効果が波及していくのではないか。そう考えました。