明治時代、富国強兵外貨獲得で紅茶輸出、世界指折りの輸出国に

緑茶が主流の国産茶のなかでは目立たない存在だった国産紅茶=和紅茶だが、近年改めて注目され、人気が広がりつつある(画像提供:TOKYO TEA BLENDERS)

いずれにせよ、茶類の原料はいずれも共通のチャノキであり、チャノキが栽培できるところであれば、緑茶も烏龍茶も紅茶も製造可能ということになる。

ただし、コメに「コシヒカリ」や「あきたこまち」や「ゆめぴりか」などたくさんの品種があるように、チャノキにもたくさんの品種があり、それぞれに何茶に向くという適性がある。たとえば、「やぶきた」は緑茶に向く代表的な品種だ。そしてほかに「べにふうき」「べにふじ」のように「べに」と付く一連の品種もあるのだが、これらこそ、紅茶に適した品種、和紅茶の原料だ。

チャノキは中国原産とされているが、大航海時代などに世界各地に移植されて広がった。そのなかで、インドのアッサムで発見された変種のアッサムチャが世界的には代表的な紅茶向け品種である。これは明治時代に日本にも持ち込まれ、ほかの在来種などとの交配によって、日本の紅茶品種が生まれていった。

そう、和紅茶の歴史は明治時代にまでさかのぼる。

日本にチャノキが持ち込まれたのは、明治どころか8世紀、天平時代の昔と伝えられている。とはいえ、その頃は僧侶や貴族が薬用としていた程度であった。その後、鎌倉時代に抹茶の作り方が宋から伝わって、武家や貴族に喫茶習慣が広まったと言われている。以降、これが日本での茶の主流となった。

さて、時代は下って江戸末期から明治維新へという頃。今の静岡市は、江戸時代を通じて幕府と徳川家の重要な拠点である駿府であったわけだが、大政奉還によって徳川家も旗本をはじめとする武士たちも自分たちで事業を興すなりして収入を得なければならなくなった。

ホテル雅叙園東京がこの冬季に提供するアフタヌーンティーでは、国産のみかんも使用したオリジナルブレンド「クリスマスアールグレイ」もラインアップする(画像提供:目黒雅叙園)

その頃に、幕臣勝海舟や山岡鉄舟が奨励したと伝えられるのが、茶畑の開墾であった。静岡市から南西へ向かうと「越すに越されぬ」とうたわれた大井川があり、それを渡った途端に急激に盛り上がる牧之原台地という広大な台地がある。ここは一般的な作物の栽培には適さない酸性の強い赤土で、ほとんどが原野のままだった。ところが、チャノキは好酸性植物といってこの酸性土壌に適した数少ない作物だった。そこで、元武士たちが入植して茶園の開墾に当たった。また、富士山麓にも同様の地帯があり、これらの開墾によって、今日では日本一という茶産地静岡の基盤ができたのだ。

しかし、茶を作っても売れなければ仕方がない。そこで静岡の元武士たちと、駿府・静岡の商人たちと、そして明治新政府が考えたのが、茶の輸出であった。何しろ富国強兵を急いでいた時代であり、外貨獲得は急務であった。明治の輸出産業では富岡製糸場が知られるように生糸が有名だが、茶も重視された。

当時も今も、欧米で飲まれている茶は基本的に紅茶である。そこで静岡のみならず、福岡や鹿児島などほかの茶産地にも紅茶用のチャノキが導入され、栽培や製茶の技術普及も行われた。この結果、日本は世界でも指折りの紅茶輸出国となったのだった。

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英国でも高評価を得た和紅茶