
1650年代から1730年代にかけてのいわゆる「海賊の黄金時代」、外洋に出て暴れまわっていた海賊たちも、ときには補給や船の修理のために、また当局の目を逃れるためにカリブ海一帯の港に立ち寄った。そうした余暇に彼らが多くの時間を過ごしたのがタバーン(酒場)だ。
ある程度大きな港であればどこでも、いくつもの酒場が立ち並び、地元住民、旅行者、そして海賊たちが集まって、心ゆくまで酒盛りを楽しんでいた。海賊に大酒飲みが多かったことは間違いない。酔っぱらいや乱暴者として描写されることが多い海賊だが、彼らは酒場でただ暴れたり騒いだりしていたわけではない。そこでは、さまざまな取引が行われていたのだ。

パブとタバーン
当時、海賊が集まる酒場には、パブリックハウス(パブ)とタバーンという2つの種類があった。パブリックハウスとはその名の通り、個人の家を公(パブリック)に開放したものを指した。ビールの醸造に対する規制がゆるく、課税もなかったこの時代には、節約のために多くの人が自宅で醸造を行っていた。自分で飲みきれないほどの酒を造っている人はだれでも、自宅を開放して道ゆく人たちに提供することができた。
一方、タバーンとは、酒を売り、食事を出し、娯楽を提供するという目的のために用意された空間だった。まっとうなタバーンであれば、テーブル席、バーカウンター、ダンスフロアのほか、顧客の馬の世話を引き受ける馬小屋もあった。壁には特売のちらしから、逃げた奴隷の懸賞金を知らせる手配書、裁判や絞首刑のニュースを記した紙まで貼られていた。地元の娼婦たちは、客を相手に商売をした。タバーンは決まった時間に開き、ビールのほかにも、ワイン、ラム酒、ウイスキーなどを提供した。多くの店が、2階に宿泊ができる部屋を設けていた。

取引の場として
騒々しい場所というイメージとは裏腹に、タバーンはコミュニティーの中心的な役割を担っていた。たとえば、情報を交換する場所として機能した。最新の政治スキャンダルや条約の交渉に関するニュースは、タバーンを通して広く知れ渡った。17世紀のバルバドスでは、議会は専用の会議場ではなく、タバーンで定期的に会合を開いていた。タバーンはこのほか、商業的な交渉を気軽に行える場所として使われることもよくあった。
海賊たちもまた、タバーンという場をうまく利用していた。酒盛りの合間に、彼らは多くの人々と交流を持ち、船乗りをスカウトしたり、商船での反乱をたき付けたり、さまざまな商船の貿易ルートについての情報を仕入れたりした。
彼らはまた、伝統的な商業の場で海賊と一緒にいるところを見られたくない裕福な上流階級の商人や政治家たちと、ここで取引をした。ジャマイカを訪れたジョン・テイラーという人物は、1683年、この島の住民たちには多くの富と多様な娯楽があるが、それは地元のタバーンや売春宿をひいきにしている海賊たちのおかげであると述べている。