多くの経営者から学ぶために転職
GSでの仕事は刺激的で、「生意気な奴ほどかわいがられる」という社風も心地良かったが、「自分が志しているのはあくまで起業。そのためには、多くの経営者と会ってビジネスを学ぶ必要がある」と考え、投資顧問会社への転職を決めた。この転身によって、アナリストとして年間1000件もの会社訪問をし、経営者らと事業について深く議論する機会を得た。この時、徹底して行ったのが自分なりの真理の追究だ。
「投資先を決める会議では、上司が右と言うから右じゃダメ。自分が左だと思えば、なぜそう思うのか、具体的な根拠に基づいて説得しなくてはなりません。そのため、例えばメーカーであれば、ロシアや中国にある製造や販売の現場にアポなしで行って、現地のスタッフから話を聞き出したりもしていました。自分の立てた仮説が本当に正しいのか、検証を重ねるプロセスを繰り返すうち、3年半後に独立を決める頃には、ほとんど私の投資判断に対し、異論を挟まれることはなくなりました」
絶対的な自信を得た杉原氏は2005年、27歳にしてハヤテインベストメントを設立する。社名は、力強く新鮮な風を意味する大和言葉「疾風(はやて)」から取り、「業界に新風をもたらす」との意味を込めた。メンバーはわずか4人。小さなマンションの一室からのスタートだった。収入がいきなりゼロになる一方、毎月、家賃や人件費などの固定費がどんどん出ていく。名刺を出しても「はあ」という反応しか返ってこない。GSや投資顧問会社でも厳しい仕事を経験したが「起業はその10倍きつかった」。
年間3000社を3人で訪問
06年の事業開始からアベノミクスが始まるまでの10年弱は、「ジャパンパッシング」や「ジャパンナッシング」と言われ、世界の中で日本企業や日本市場への関心が急速にしぼんだ時期でもあった。だが杉原氏は、投資信託の投資対象を、日本の中小型株とすることにこだわった。それは、どんなに日本が地盤沈下していると言われようと、「平均ではなく個別に見れば、日本には輝く企業がたくさんある」という信念があったからだ。
留学経験もなく英語もおぼつかない中、会社設立当初から海外の大学基金や年金基金などにも電話をかけ、日本企業を売り込んだ。意外にも海外の一流投資家は、杉原氏のGSでの経験や投資顧問会社でアナリストとして実績を出していたことをフラットに評価し、話を聞いてくれた。そうして少しずつ顧客を増やす一方で、アナリスト3人で年間3000社を超える会社を訪問し、宝の原石となる企業を見つけ出した。やがてその高い投資リターンが国内外から注目を集めるようになり、世界の調査会社から数々の賞を受賞するまでになる。
しかし起業から10年目の15年、杉原氏の自問自答が始まった。独立系の金融機関として生き残るためには圧倒的な実績が必要だと考え、全力で走り、実績を出してきたが、果たしてこのまま突き進んでいくべきなのか――。
「それまでは私がCEO(最高経営責任者)兼CIO(最高投資責任者)で、いわば『杉原商店』でやってきたわけですが、それを続けていたのでは後継者を育てられない。そこに大きな危機感を覚えました。投資の世界はウォーレン・バフェットやビル・グロスなど固有名詞で語られがちで、その思考過程は職人技のようなもので言語化は不可能と信じられてきましたが、本当にそうなのか。個人の経験やノウハウ、考え方を客観的に分析し、後進に伝えて教育していくことができない業界には未来はないという考えに至りました」