パーカー・ピアソンはユニバーシティ・カレッジ・ロンドン付属考古学研究所に所属する英国の先史時代遺跡の専門家で、仮説を検証するためにここを訪れた。それは、ストーンヘンジの石はどこか遠くにあった既存の環状列石から持ち出されたものではないか、という仮説だ。
「ストーンヘンジの石が別の地域から運ばれてきたものであることは確かです。グレート・ブリテン島に何百もある環状列石のうち、遠方から運ばれた石が使われているのはストーンヘンジだけです。後はすべて地元の石で造られています」とパーカー・ピアソンは話す。
ワイン・マウンはグレート・ブリテン島で最古級の環状列石の痕跡で、紀元前3300年ごろに建造された。この場所はストーンヘンジのブルーストーンが切り出されたプレセリの丘の露頭から数キロ圏内に位置している。
ワイン・マウンの環状列石の建造は、3分の1ほど完成したところでなぜか中断されたようだと、パーカー・ピアソンは説明する。「もっと石を立てるつもりで穴を掘った跡はありますが、そこには石を立てなかった」。実際に立てられた15個ほどの石のうち、今も立っているのは1個だけ。3個が草むらに横たわり、残り11個の行方はわからない。

パーカー・ピアソンらは2021年、新説を発表した。現存するストーンヘンジの石のうち少なくとも一部は、紀元前3000年ごろにウェールズから東方に移動した人々が、ウェールズにあったさらに古い建造物を解体して運んできたものではないか、という説だ。特にストーンヘンジの標識番号62番の石はワイン・マウンから運ばれた可能性があるという。
穴を掘ったのに、なぜか石を立てなかった
この説が大々的に報道されると、考古学界は二分された。そもそもワイン・マウンに環状列石があったかどうかも疑わしく、もともと数個の石があっただけではないかと考える学者もいた。そこでパーカー・ピアソンらは証拠を固めるために、再びワイン・マウンを訪れたのだった。
新たに見つかった証拠は興味深いものだった。ストーンヘンジのブルーストーンのうち、まだら模様のないドレライトは3個しかなく、62番の石はその一つで、ワイン・マウンにも同じ種類の石が使用されていた。さらに、62番の石の断面は五角形になっている。その形はワイン・マウンの穴に残された跡と一致するように見えた。加えて、その穴からは、まだら模様のないドレライトの破片が発見されている。
パーカー・ピアソン率いるチームは再調査で、ワイン・マウンが環状列石だったこと、その大きさはストーンヘンジを囲んだ初期の溝とほぼ同じだったことを示す証拠も手に入れた。また、ストーンヘンジと同じく、ワイン・マウンの石の配列も夏至の日の出と冬至の日の入りの方向に合わせて設計されていたようだ。後はワイン・マウンの石とストーンヘンジのブルーストーンが地球化学的に一致することを明示できれば、決定的な根拠となるのだが、残念ながらそれはかなわなかった。
もっとも、完全に一致する石が見つかる可能性が低いことは、探す前からわかっていた。ストーンヘンジには80個以上のブルーストーンがあったとみられているが、現存するのは43個だけだからというのが理由の一つだ。
ストーンヘンジも、ワイン・マウンも「かつてあった石の一部は失われている」とパーカー・ピアソンは話す。「それでも、ワイン・マウンで環状列石を造っていた人々が作業を中断したことを示す有力な証拠は見つかりました。彼らはもっと石を立てようとして、穴を掘ったのに、なぜか立てなかった。何が起きたのか。彼らはどこに行き、石はどこにあるのか」
考古学的な証拠から、というよりも証拠の欠如から、紀元前3000年以降、ワイン・マウンにはほとんど人が住んでいなかったと考えられる。この年代は、ウェールズから東方への大移動が起きたとみられている年代と一致する。「しかし、証拠の不在は、不在の証拠にはなりません」とパーカー・ピアソンは言う。
彼はもう一度プレセリの丘に行き、紀元前3000年ごろに放牧地が再び荒れ地になったことを示す花粉化石を採取したいと考えている。それができれば、ストーンヘンジが建造された時期に、この地域から人々が去っていったという仮説は一段と説得力を増す。
また、ストーンヘンジの62番の石が、ワイン・マウンの石と一致することを示す決定的な証拠はないとはいえ、地質学者のベビンズとイクサーの調査で、62番の石がワイン・マウンの少し東にある露頭で採取されたことはわかっている。「この露頭ではまだ、考古学者による調査が行われていません」とベビンズは話す。
(文 ロフ・スミス、写真 ルーベン・ウー、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版 2022年8月号の記事を再構成]