会社が提示した好条件で、交渉はトントン拍子に進んだ。ところが1軒だけ、呼び鈴を鳴らしても決して出てきてくれない家があった。住人は一人暮らしのおばあさん。団地に日参し、外出しようとするおばあさんをようやくつかまえ、話しかけた。しかし「興味はない」の一点張り。「どんなに大金を積まれようと、亡くなった夫が残してくれた大切な家を売る気はない」と繰り返した。

諦めずに通い続け、買い物や接骨院に付き添ううちに、おばあさんには疎遠になっている孫がおり、いつかその孫が今の家に帰ってきてくれることを願っているという話を聞き出した。ここぞとばかりに山下氏は切り出した。

「少しの間だけ家を空けていただくと、おばあちゃんは新しいお住まいに住めるようになりますし、お孫さんも新しい家だったら来やすいのではないでしょうか」

おばあさんはようやく首を縦に振ってくれた。

万事うまくいったつもりだった。ところが2年後に新築マンションが竣工し、おばあさんに再会した山下氏は、思いも寄らない言葉を耳にする。

「あんたが私の人生を奪った」

長年慣れ親しんだ風景が消え、真新しいマンションが立ち上がっていく様子を目の当たりにしたおばあさんは、夫と築き上げてきた暮らしと、かけがえのない家族の思い出が台無しにされたと感じたのだろう。その目からは大粒の涙があふれていた。

人を悲しませたことに大きなショック

「僕はこんなにも人を悲しませるようなことをしていたのかとショックでした。その日どうやって帰ったのかも覚えていません。以来、仕事に迷いが出てきました。会社の先輩にも悩んでいることを打ち明けましたが、誰一人として解を持っていませんでした。しかもよく考えると、自分たちが手がけたマンションを会社の人はあまり買っていませんでした。それは買った直後に資産価値が落ちることを知っていたからでしょう。僕はそこに嘘があると感じたし、人を不幸にしてしまうような仕事はしたくないと思うようになりました」

プロジェクトが終わると同時に3カ月の長期休暇を取り、ラグビーの仲間や先輩を訪ねて海外を回った。アメリカの西海岸・東海岸、フランス・パリで最も優美なエリアと言われるマレ地区、オーストラリアのブリスベン……。もともとおしゃれにそれほど興味もなさそうだったのに、彼らは素敵な家に住んでいた。建物自体は新しくない。でも自分で壁にペンキを塗ったり、照明を変えたり工夫を加えながら暮らしていることを、誰もがうれしそうに語るのだった。

海外では、古い建物を壊して建て替えるのではなく、古さを生かしながら、自分好みの暮らしを住人自らが作り上げていくのが当たり前。そうすることで、資産価値自体も上がっていくと知って驚いた。新築至上主義で、買った途端に価値が下がる日本とは正反対だ。それを知った衝撃と、おばあさんを泣かせてしまった後悔の念とが、「リノベーションをスタンダードな選択肢にしたい」という夢につながっていく。

(ライター 石臥薫子)

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