日経ナショナル ジオグラフィック社

アンコール・トムの南門へ向かう参道の片側に並ぶ、しかめ面のアスラ(阿修羅)像。反対側には、ヒンドゥーの善神たちの像が並ぶ。どちらも、ナーガと呼ばれる蛇神に乗っている(TIM LAMAN/NATIONAL GEOGRAPHIC)

仏教とヒンドゥー教は、長年にわたって平和裏に共存していた。仏教が初めてカンボジアに入ってきたのは5世紀ごろだ。インドからの商人や布教者がもたらした仏教文化は、カンボジアの歴史に大きな影響を与えることになった。それ以前にすでにヒンドゥー教をカンボジアに伝えていたのもインドで、クメール語はサンスクリット語と関係が深い。

スーリヤヴァルマン2世の死後約30年、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世は、チャム族の侵攻を受けたクメールを復興させ、仏教を国教に定めた。近隣のアンコール・トムにあるバイヨン寺院には、このジャヤーヴァルマン7世の顔をモデルにしたと思われる装飾が多く残されている。アンコール・トムは、新たなクメールの隆盛を象徴する城塞都市で、クメールの新首都となった。当時としては記録的な75万人が暮らしていたとされる。

1200年ごろに建てられたアンコール・トムのバイヨン寺院。中央には高さ約30メートルの塔があり、それを囲むように54の塔が作られている。まるでジャングルの中にある石の森だ(KOSEL SALTO/GETTY IMAGES)

アンコール・ワットはヒンドゥー教の寺院だったが、1300年代に正式に仏教寺院に改められた。仏教はヒンドゥー教に寛容だったので、仏像は追加されたものの、既存の彫像や彫刻が破壊されたり置き換えられたりすることはなかった。

ヨーロッパ人の到来

だがこのころには、クメール王朝の衰退が始まっていた。そして1430年代にはアンコールが放棄され、その後、 首都は南方の新都市プノンペンに移された。

遷都には、環境的な要因もあったようだ。アンコールには、人工の運河や堤防、貯水池などの高度な仕組みがあった。最大の貯水池だった西バライは、東西8キロメートル、南北2.5キロメートルにおよぶ規模で、高度な技術が使われていた。この水路網が、産業革命前の都市としては最大規模である75万人の住民ののどを潤し、米の栽培にも使われていた。しかし、強烈な季節風や干ばつに繰り返し襲われた結果、灌漑(かんがい)設備が機能しなくなり、都市の衰退につながったものと考えられている。

一帯は再びジャングルに覆われ、都市は深い緑に埋もれた。崩れた塔の間に育った巨木の根が柱や壁に絡みつき、ジャングルと遺跡は一つになった。それでも、ある寺院は決して見捨てられることがなかった。それがアンコール・ワットだ。やがて14世紀末から15世紀初めにかけて、寺院群が再建され、仏教僧たちによって巡礼地として整備された。

16世紀半ばには、ヨーロッパ人がやってくるようになった。当時のポルトガルの商人で歴史家のディオゴ・デ・コートは、「カンボジアのジャングルには都市の遺跡が眠っている。壁はすべて切り出した石でできており、まるでひとつの石でできているように思えるほど、完璧に並べられている。石はまるで大理石のようだ」と書いている。

次のページ
アンコールの魅力