人生は「そしていつまでも幸せに暮らしました」では終わらない
もし生を重んじるのなら、長い生ほど良いに違いないと考えるのは自然だ。生きていてこそ、あらゆることができる。いかなる種類の幸福であれ、生きていて初めて味わえる。
そして、不死になれば、たっぷり時間が得られる。新しい技能を身につけ、この世のあらゆる文化や地域を詳しく調べ、なれるもの、なりたいと夢見ていたもののいっさいになることができる。
あるいは単に、愛する人々が自分から奪い去られたり、愛する人々から自分が奪い去られたりするかもしれないという不安なしで、彼らと過ごす時間を楽しむことができる。少なくとも、理屈の上では。
ところが、すべては、私たちが何者か、どのような状況で死を免れるかにかかっている。仙太郎は数百年で退屈したが、彼の暮らしは、小島で変化に乏しい商いを続けるというものだった。
現代の文化の中で生きる私たちは、進歩は当然と確信しているから、寿命が延びれば新しいものが胸躍る経験をもたらしてくれるだろうと思っている。好奇心をそそる劇的な変化を次々に生き抜くことができると期待している。テクノロジーがますます急速に進歩しているので、100年後、1000年後、10万年後に文明がどこまで進んでいるかは、まったくわからない。そして、その行く末を見届けたいと思わぬ人などいるだろうか?
仙太郎はまた、家族や友人から遠く引き離されていた。知っている人や愛する人全員よりも、さらには我が子よりも長生きするのは、災いと思えたとしても少しも不思議ではない。
だが、そのように孤独な境遇を想像する必要はない。永遠に生きることを望んでいる人や永遠に生きるつもりの人の多くは、霊薬が十分にあり、あらゆる人に――あるいは、少なくとも自分が好む人全員に――行き渡ることを見込んでいる。そのような社会は、現在の社会とは大きく異なるものになるはずだ。
不老不死の霊薬を夢見るときには、私たちはおなじみのおとぎ話ばなしのような結末を夢見ている。「そして、いつまでも幸せに暮らしました」というわけだ。
だが、仙太郎の物語は、そうとは決めてかかれぬことを教えてくれる。死を無期限に先延ばしできれば、得るものは多いが、それがどれほどの代償を伴い、また新たな問題を生じさせるのかにも目を向ける必要がある。
私たちはまだ、仙太郎のように永遠の命を手にできてさえいないのだ。ただ一度の限られた人生を、より良く、より豊かで、より意味のあるものにするための方法は、私たち自身で考えていかなければならない。
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今回一部を抜粋して紹介した『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』では、科学や歴史のエピソード、神話などを題材に「不死」を目指す人類の進歩を俯瞰(ふかん)し、よりよい人生を生きるための考え方へと思考を深めていきます。ぜひ手にとってみてください。
(日経BP 宮本沙織)
