実は、このミイラを包むのに使われていた文書はエトルリアの亜麻布の書だけではなかった。エジプトの「死者の書」のパピルスも使われていたのだ。このエジプトの書物にはネシ・ホンス(「家の女主人」)という女性が登場する。今日の学者たちは、この女性こそがミイラになった女性だと信じている。20世紀後半には、彼女が生きていたのは紀元前4世紀〜前1世紀の間で、30代で亡くなったことが判明している。
亜麻布の書の黒いインクは焼いた象牙から作られていて、タイトルや見出しの赤い文字は辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱物で作られた顔料で書かれている。エトルリア語の文字の多くは、ミイラ作りに使われるバルサム(樹脂と揮発性油の混合物)のせいで不鮮明になっていたが、1930年代の赤外線写真の進歩によって新たに90行以上が解読され、亜麻布の書の正体が明らかになった。それは、1年間に執り行うべき儀式について詳述した暦だった。

亜麻布の書は、どの時期にどの神を拝み、どの儀式(酒やいけにえをささげるなど)を行うべきかを説明していて、エトルリアの水の神ネタンス(ローマの海神ネプチューンと密接な関係がある)や太陽神ウシル(ギリシャ神話の太陽神ヘリオスに相当する)への言及がある。
ザグレブの亜麻布の書を翻訳するには、エトルリアの暦や神々に関する深い知識が必要だった。例えば、この書の8段目の冒頭部分はこのような内容だった。
「(8月)13日、儀式に従って奉献を執り行うこと」
「奉献のために扉を(開けて?)保つ/守ること」
「9月24日、ネタンス(ネプチューン)へのいけにえを供えること」
その後の研究により、この書が作られた場所を特定する言葉や名前も判明した。専門家は、現在のイタリア中部の都市ペルージャの近くで作られたと考えている。亜麻布自体は紀元前4世紀のものだが、文章上の手がかりから、文字が書かれたのはもっと後だったと考えられている。1月を儀式の始まりとしている点は、この文書が紀元前200〜前150年の間に書かれたことを強く示唆している。後者の推定年代が正しいなら、その後まもなくローマ帝国の勢力拡大により失われることになるエトルリア人の生活様式を知る手段になる。

ミイラとエトルリア文字の関係
なぜエトルリア語の亜麻布の書がエジプトのミイラを包むことになったのかは、まだ正確にはわかっていないが、いくつかの仮説が提唱されている。1つは、19世紀にこのミイラが購入されたアレクサンドリアという都市の性質を根拠とした説だ。アレクサンドリアは、紀元前4世紀から前1世紀にかけて国際貿易の中心地だった。国際的な港町では、ほかの文化の文書は珍しいものではなかったはずで、ミイラを作るために入手した亜麻布に外国の文字が書いてあってもおかしくはない。この説によれば、エトルリア語の書とエジプトでミイラにされた女性の信仰との間に特別な関係はないことになる。
もう1つの説は、エトルリアの彫像を根拠としている。エジプト人が死者の書を墓に納めたように、エトルリア人が亜麻布の書を墓に納める様子を描写する彫像があるのだ。もしエジプトで死亡したこの女性がエトルリア人の血を引いていたなら、その親族は、エジプトの死者の書とエトルリアの亜麻布の書の両方を使って、女性が親しんだ2つの文化の慣習に従って葬った可能性がある。
(文 MARINA ESCOLANO-POVEDA、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年6月23日付]