日経ナショナル ジオグラフィック社

[古代エジプトの貴族女性] ザグレブ考古学博物館が所蔵するアマルナ様式のエジプト貴族女性の胸像(紀元前1353〜前1336年ごろ)。この博物館は「ザグレブの亜麻布の書」をはじめとする多くのエジプト美術品を収蔵している。2020年3月、ザグレブ考古学博物館はマグニチュード5.3の地震に襲われ、激しく損傷した。1846年に創設され、ザグレブの亜麻布の書や多数のエジプトの遺物を所蔵する同館は現在も修復中であり、まだ再開していない(PHOTOGRAPH BY TOM K PHOTO/AGE FOTOSTOCK)

インド・ヨーロッパ語族以前の言語

現在のイタリア中部トスカーナ州(州都はフィレンツェ)は、古代エトルリア人の故郷とほぼ一致している。紀元前8世紀に現れたエトルリア人はギリシャ人と交易して、金属加工、絵画、彫刻などの高度な文化を発達させた。交易によって、エトルリアの品々、ギリシャの神々、それにエウボイア島で使われていた西方ギリシャ文字が各地に運ばれた。エトルリア人は、このアルファベットを用いて、右から左に書く独自の文字を作った。

エトルリア語は、ヨーロッパの言語の中で唯一無二と言ってよい存在だ。英語をはじめとする大半のヨーロッパ言語は、数千年前にヨーロッパで広がり始めたインド・ヨーロッパ語族に含まれる。これに対してエトルリア語は、インド・ヨーロッパ語族が流入する前の言語が生き残った極めてまれな例なのだ。

古代ローマの歴史はエトルリア人の歴史と密接に関係している。王政ローマの初期の王として君臨していたのはエトルリア人だった。また、エトルリア語の言葉はラテン語に受け継がれた。例えば、エトルリア語で「仮面」を意味する「phersu」という言葉は、「人」を意味するラテン語の「persona」となり、そこから英語の「person」となった。しかし、共和制ローマの勢力拡大とともにエトルリア社会は衰退し、工芸品や、墓地の鮮やかな絵画と碑文などが残るのみとなり、その文字を読める人も減っていった。

1世紀のローマ皇帝クラウディウスはエトルリア語を学んでおり、実際にエトルリア語を話したり読んだりできた最後の人物の1人だ。クラウディウスは20巻からなるエトルリア史まで著したが、現存していない。

亜麻布には何が書かれていたのか

ミイラを包むために裂かれる前の「ザグレブの亜麻布の書」は、12段の文章が書かれた長さ3メートル強の1枚布だった。ミイラから回収できた部分には、原文の約60%に相当する約1330語が書かれていると推定される。この文書が発見されるまでは、エトルリア語の専門家は1万点ほどの短い碑文に基づいて研究するしかなかったが、1891年にクラールがこの書の言語を特定したことで、研究に使えるテキストが大幅に増えた。

紀元前6世紀に製作されたテラコッタ製の容器。おそらく儀式用の酒を注ぐのに使われた。イタリアのタルキニア考古学博物館所蔵(PHOTOGRAPH BY ALBUM/AKG-IMAGES/NIMATALLAH)

学者たちは当初、ザグレブの亜麻布の書は葬儀用に書かれたものだと考え、これに包まれていたミイラと何らかの関連があるのではないかと推測していた。このミイラは、1840年代にエジプトのアレクサンドリアでミハイル・バリッチというクロアチア人男性によって購入された。バリッチはウィーンの自宅でミイラを保管していたが、彼の死後、ミイラと包みはザグレブの博物館に寄贈された。

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ミイラとエトルリア文字の関係