ひらめきブックレビュー

壁がアイドルに見えてくる 認知科学で解く「推し」 『「推し」の科学』

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あなたに「推し」はいるだろうか? 推しとは、熱心に応援し、情熱のあまり何かしらの行動を起こしてしまう対象のことだ。俳優や歌手、2次元のキャラクターや食べ物など、様々なものが推しになる。ボクシングの入江聖奈選手が東京農工大学大学院に合格したニュースが話題になったが、彼女はカエルの研究者を目指しており、よくカエルの衣服やグッズを身に着けている。「カエル推し」なのだ。

最近、認知科学の世界で、こうした推しにまつわる「プロジェクション」という心の働きが注目されているらしい。本書『「推し」の科学』は、推しをめぐるファン行動を例に、プロジェクションについて紹介する。著者の久保(川合)南海子氏は愛知淑徳大学心理学部教授で、生涯発達心理学、認知科学などを専門とする。

西城秀樹が映る壁

プロジェクションは「作り出した意味、表象を世界に投射し、物理世界と心理世界に重ね合わせる心の働き」と定義される。人間は、自分を取り巻く物理世界から情報を受け取ってイメージや意味を作り出している。同時に、自分で意味を付加して世界に「投射」している、というのがキモだ。

本書にあるアニメ『ちびまる子ちゃん』の例を見てみよう。まる子とまる子のお姉ちゃんが壁を見てうっとりしていた。まる子達は、大ファンである西城秀樹と同じ身長の高さに印をつけ、秀樹がそこにいるかのように想像していたのだ。同居のおじいちゃんがそんな2人を見ていぶかしく思うが、まる子から「百恵ちゃんでやってみなよ」と言われ、山口百恵の身長と同じ高さに印をつけて壁を見てみた。するとおじいちゃんにはほほ笑んだ山口百恵が見えた、というものだ。

壁をただの壁と思うのは、通常の認識である。しかし、印をつけたことで、おのおのの推しのイメージが投射された結果、物理的な壁は変わっていないのに「うっとりするほどすてきな壁」となった。投射ひとつで、物理世界の意味に劇的な変化を起こせたのだ。

古代人のプロジェクション

著者は推しを応援する時のプロジェクションを、世界を意味づけて生きる力と呼ぶ。コンサートで持ち帰った銀色のテープの切れ端が、推しとの関係性が投射された宝物になる。あるいは旅行中、推しを投射したぬいぐるみを入れて写真を撮り、実際には1人であっても他者を感じながら旅を楽しむ(「ぬい撮り」と呼ぶ)。新しい「意味づけ」がなされると、人は前向きなエネルギーを発するようだ。

飛躍するようだが、プロジェクションは人間の進化をも支えたという。太古の人々が大海原を航海し、新しい島へと移動できたのはなぜか。それは見えない島を眼前の海に投射し、希望を持つことができたからだと著者は語る。現実とは違うものを映し出す力が、人類をここまで駆り立ててきた可能性があるのだ。

本書を読めば推しに入れ込む人の認識の仕方が見えてくる。同時に、壁をただの壁としか思えない人生はほんの少し損なのかもしれない、といった気にさえさせられる。

今週の評者 = 安藤 奈々
情報工場エディター。8万人超のビジネスパーソンに良質な「ひらめき」を提供する書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」編集部のエディター。早大卒。

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