ひらめきブックレビュー

「あざとさ」も運も 難局乗り切り続けた家康の判断力 『徳川家康の決断』

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NHK大河ドラマ『どうする家康』が始まる。公式サイトによると、危機に見舞われた徳川家康が、難しい選択を前に「どうする」と悩み、決断していく様子が見どころのようだ。だが、家康といえば天下を統一し、長い江戸時代の礎を築いた大人物。悩み苦しんでいるイメージがない、という人もいるだろう。

そこで、本書『徳川家康の決断』を開いてみたい。家康の運命を左右した「人生のターニングポイント」を切り口として、波乱に富んだ生涯を紹介した新書だ。ターニングポイントは全部で10あり、桶狭間の合戦や本能寺の変、関ケ原の合戦、家臣団の分裂や自らの嫡男(跡取り)の処断など厳しい状況が並ぶ。有事の際、家康がどんな決断を下し、どう行動してきたかが、歴史研究の最新知見を踏まえてつまびらかにされる。

著者の本多隆成氏は家康に関する著書も多い静岡大学名誉教授、文学博士。

■人質から領主へ

最初に取り上げられているのが、桶狭間の合戦だ。永禄3年(1560年)5月19日、大軍を率いた今川義元が、おけはざま山(現在の名古屋市)で寡兵の織田信長に討たれた事件である。

この時、今川氏の人質として幼少期を過ごし、義元とは強い主従関係にあった家康(当時は元康と名乗っていた)が、今川の「くびき」から脱したと著者は指摘している。当初は今川方で戦っていたが、今川の軍勢が引くとともに生家である松平家の家臣団を再結集して領国を広げる方向に転じた。翌年には、信長と和睦し領土協定を締結。嫡男竹千代と信長の次女徳姫の婚約などを経て同盟関係を強め、ついには今川義元からもらった「元」の字を捨て「家康」と改名した。今川氏をここで見限ったのは合理的な判断であったろうが、家康はどのように煩悶(はんもん)したのか。なんとも想像をかき立てられるシチュエーションだ。

家康の決断は正解ばかりではなかった。武田信玄と相まみえた三方原(浜松市辺り)の合戦では、2万5000の武田軍を追って野戦で挑み、人生最大の敗北を味わった。徳川軍は1万余しかなかったため、浜松城に籠城すべきであったが、武田軍が通り過ぎるのを看過できなかった。信長から援軍を送られていたために、一戦交えなくてはならないという気負いもあったようだ。家康の人間臭い一面がうかがえる。

■健康志向の人

家康の人物像に関する章も興味深い。それによると家康は「健康志向」の人。若いころから大の鷹(たか)狩り好きであり、遠方へ出かけ野山を駆け巡ることで身体が頑健になったという。また、薬に関する知識、関心も並々ならぬものだった。自ら製剤・調合して諸大名に配っていたというから驚きだ。

健康志向も奏功してか75歳(満73歳)まで生きたが、とくに人生の前半は先述のような試練が立て続けにあった。家康は試練に直面するたびに必死に考えて生き延びた。その際、あざとい選択をしたこともあれば、単に運が良かっただけのこともあった。家康の胸の内に思いをはせつつ、大河ドラマの新しい解釈を楽しみにしたい。

今回の評者 = 安藤 奈々
情報工場エディター。8万人超のビジネスパーソンに良質な「ひらめき」を提供する書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」編集部のエディター。早大卒。

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