強者同士が真剣勝負 作り手・買い手・書き手とも過酷
カンヌ映画祭リポート2013(4)
カンヌは怖いところだ。「華やかで冷酷。怠惰で淫蕩(いんとう)。強欲で非情なカンヌの町の底から絶えず漂ってくるのは死の匂いだ」。1950年代末から45年も通ったエッセイストの秦早穂子さんは自著「影の部分」に記す。
華やかな成功物語の影に、敗者たちの悲惨があり、嫉妬が渦を巻く。監督も俳優もプロデューサーもバイヤーも、分刻みのスケジュールで忙しく動き回り、豊かな実りを得る者もいれば、失意に沈む者もいる。
観客は1本でも多く見たいから、つまらないと思ったら上映の途中でどんどん席を立つ。新聞評は容赦なくたたく。評判がよくても審査員が理解しなければ賞はとれない。作品の売買を巡る虚々実々の駆け引きもある。誰もが真剣、ゆえに非情なのだ。
批評家やジャーナリストにとってもハードな場所だ。毎朝8時半のプレス向け上映に始まって、深夜の上映が終わるのは午前0時から2時ごろ。見ようと思えば1日6~7本は見られるが、記者会見があり、インタビューがあり、原稿も送るとなると、1日3~4本が限度。見切れない量の話題作がある。
知り合いの映画人はたくさん集まっているのに、ゆっくり話す暇もない。食事もままならず、寝る間もろくにない。「優雅に楽しんでるんだろう」という周囲の想像とは真逆の過酷な現場だ。冷蔵庫もバスタブもない宿に泊まり、肉体も精神も限界まですり減らして働く。
なんでそんなに働くのかと問われれば、それがカンヌの魔力だと答えるしかない。参加する誰もが高揚している。世界中が注目し、影響力も大きい。そもそも映画というものが、そんな高揚感の中で生まれるものだからだろう。売り買いもしかり、批評もしかりだ。
一般のファンを相手にする多くの映画祭と違い、カンヌは完全にプロフェッショナルな世界である。誰もが仕事で来る。強者同士の真剣勝負の場だ。
21年前に初めてカンヌに来たときは本当に怖かった。今でこそ日本人のライターが大勢カンヌにやってくるが、当時のプレスは少なかった。限られた批評家と新聞記者しかおらず、20~30年も通う筋金入りの先輩がほとんど。おのずと緊張した。
バブルの残り火があるころで、日本人のバイヤーが急増していた。読売新聞の記者だった河原畑寧さんが「近ごろの子は勉強しないねえ」と嘆いていた。ただ恥じ入るしかなかった。70年代初頭からカンヌに通い続けた重鎮で語学も達者な河原畑さんにして、カンヌ前の綿密な予習を怠らないことを知っていたからだ。
フランス映画社の川喜多和子さんはカンヌでもすごい存在感だったが、帰国後、駆け出し記者のつたない連載を隅から隅まで読んでくれた。「おもしろいんじゃない」と言った上で、的確でない部分を冷徹に指摘された。新宿ゴールデン街のバーのはす向かいの止まり木からジロリとこちらをにらんだ和子さんの目が忘れられない。
和子さんは翌93年、カンヌから帰国した直後に急逝した。岩波ホール総支配人の高野悦子さん、映画評論家の草壁久四郎さん、大映社長の徳間康快さん……。あのころカンヌで教えを受けた映画人の多くが鬼籍に入った。
恵まれていたと思う。日本人は今よりずっと少なかった。毎晩、駅前のカフェでビールを飲みながら、その日見た映画について語りあった。ヘラルドエース社長の原正人さんをはじめ多くのバイヤーにも意見を求められた。互いに何を見たのか、何を買おうとしているのか、何を書いているのか、関心があった。映画にかかわる者同士の連帯感があった。カンヌの高揚感を立場を超えて共有していた。
21年後のカンヌはそういう意味では少し寂しい。誰が何をしているのかが見えにくい。公開本数は膨らむ一方なのに、人々の記憶に残る映画が少ない。宣伝のための薄っぺらな情報はあふれているが、真摯な批評はまれだ。そんな日本の映画状況の拡散がそのままカンヌに反映しているのだろう。
さはさりながら、カンヌは依然として怖いところだ。世界は今も映画に真剣だからだ。
(カンヌ=編集委員 古賀重樹)
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