古墳が造成されたのは3世紀後半から7世紀後半にかけて。国内各地の首長を手厚く葬る墓として造成され、仁徳天皇陵と伝えられる大仙古墳(堺市)が全長486メートルで最大だ。北海道や東北北部、南西諸島を除き全国で確認されているが、形状や規格はほぼ一定している。
このため、各地の首長間に政治的な同盟や連合といった関係が結ばれており、墳丘の大きさなどについても政治連合の中での地位や影響力が関係していたと見るのが一般的だ。例えば、女狭穂塚はほぼ同じ時期に造られた仲津山古墳(大阪府藤井寺市)の相似形で60%に縮尺した形だ。
宮崎県立西都原考古博物館の東憲章副主幹のまとめによると、九州で墳長が120メートルを超える前方後円墳は全部で12基。律令制に基づく国別でみると、現在の宮崎県と鹿児島県の大隅半島地域を含む日向国が8基と圧倒的に多い。これは畿内王権と深いつながりがあったことの証しと受け止められている。
なぜ畿内王権が日向と深い関係をもったのか。謎を解くカギの一つが「后(きさき)」だ。古事記と日本書紀には12代の景行天皇、15代の応神天皇、16代の仁徳天皇がそれぞれ日向出身の后を迎え、皇子や皇女をもうけたと記す。古事記では3人で、日本書紀では4人の日向出身の后が登場する。
古代史が専門のラ・サール学園の永山修一教諭によると、天皇に仕えた女性は古事記全体で計85人。このうち畿外出身とみられるのは21人。内訳は近江5人、丹後3人、吉備2人、尾張2人、伊勢2人など。日向は圧倒的に離れている。
古事記、日本書紀ともに仁徳天皇が日向諸県君牛諸(ひゅうがもろがたのきみうしもろ)の娘のカミナガヒメを后とする経緯を丁寧に記載している。二人には兄のハタビノオホイラツコ、妹のハタビノワキイラツメが生まれた。