「松嶋屋!」「成駒屋!」――。歌舞伎を見に行くと、上演中に客席のどこからともなく大きな声が舞台に飛んでくる。その叫び声は初めて聞くと驚くが、慣れてくると舞台進行に不可欠の存在に思え、自分でも挑戦してみたくなる。絶妙なタイミングをつかんで芝居を盛り上げるこの「大向こう」。参加資格やルールはあるのだろうか。
掛け声は客席の後ろ、それも上の方から天井を伝って聞こえてくる。「二月花形歌舞伎」を26日まで公演中の大阪松竹座で声の主を探すと、3階席の後方で真剣に舞台を見つめ、俳優が登場したときや見えを切ったときに声を掛けている人がいた。大向こうという呼び名は舞台から見て遠くの客席のことで、そこに陣取って同じ舞台に何度も通う常連客のことも指す。
◇ ◇
声を掛けているのは関西に唯一存在する大向こうの親睦組織「初音会」のメンバーたちだ。松竹座の吉浦高志支配人に聞くと「会員でないと声を掛けてはいけないわけではないが、他のお客様にヤジや雑音と思われるような場合はやめてもらうよう注意している」と話す。つまり参加資格はないが、下手な掛け声は遠慮願いたいということになるようだ。
大向こうは俳優の登場や見えのほか、名ゼリフの呼吸の間や所作が決まった瞬間など芝居の最中に客が発する声援の一種を意味するようにもなった。日本の古典芸能独特の風習だ。オペラではアリアの後に拍手や歓呼を受けるものもあるが、演奏や演技の進行中に客が声や音を発することは基本的に許されない。
歌舞伎の場合は掛け声が舞台を盛り上げるだけでなく、舞踊劇「お祭り」のように掛け声が芝居の一部を構成して不可欠なものまである。ただ、「掛かる間が悪いと、セリフが言い出しにくいことがある」(二月花形歌舞伎に出演中の歌舞伎俳優、上村吉弥さん)。大向こうは単なる声援以上に演出として大きな効果を持っているだけに繊細さも必要だ。