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大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説

2012/9/1

堺の「家康の墓」にかかわる出来事
1557年南宗寺創建
1615年
 4月
堺の街が焼かれ、南宗寺も全焼
 5月大坂夏の陣で豊臣方が敗北
1616年徳川家康が死去
1623年徳川秀忠、家光が南宗寺坐雲亭を訪れる
1945年空襲により南宗寺開山堂、東照宮など焼失
1967年南宗寺の東照宮跡に「家康の墓」建立

■「伝説を裏付けるものがあるんです」

単なる伝説で、こんな大がかりなことをするだろうか。そんな思いを抱いていると「伝説を裏付けるものがまだあるんです」と川上さん。家康の墓の斜め後ろには伝説にも登場する開山堂の跡がある。そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣だった山岡鉄舟の筆という「この無名塔を家康の墓と認める」との内容の碑文が埋め込まれている。

開山堂跡近くの坐雲亭内の板額には1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠、8月18日に家光と、代替わりした両将軍が相次ぎ同寺を訪れた記録が残る。川上さんは「2人の将軍が1カ月ほどの間に南宗寺を訪ねるのは、かなり異例でしょう」と説明する。

ただ、墓を巡る伝説には疑問もある。堺は夏の陣の決戦前に豊臣方に焼き払われた。徳川幕府により街が復興されるなか、南宗寺も元の場所から移転している。伝説があったとされる当時、開山堂はなかったはずだ。また、夏の陣の最後の決戦で真田幸村が家康の本陣を脅かした記録は残るが、槍で突いたとされる後藤又兵衛はその前に討ち死にしたことになっている。

■家康の駕籠の写真、浮かぶ新たな謎

季刊誌の「大阪春秋」編集委員で堺の歴史に詳しい中井正弘さんは「焼かれた堺の復興に徳川幕府はすぐに取りかかり、以前の街の規模を上回る商工都市にした。堺の人たちには家康への強い感謝の思いがあったはずで、供養の気持ちがいつしか墓伝説になったと考えられる」とみる。

半信半疑の私に「まだ疑っているようですね」と川上さん。「ではこれを見てください」と取り出したのは、日光東照宮宝物館に収蔵される家康の駕籠の写真。天井には丸い穴が開いている。宝物館に尋ねてみると「(伝説にある)槍による穴ではないと思います。幸村の鉄砲によるとの伝承があります。穴は下まで貫通し、2つありますから」。その時、狭い駕籠に人が乗っていたらどうなったのか。新たな謎が浮かんだ。

(堺支局長 原明彦)

[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年8月29日付]

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