まず1891年創業の老舗メーカー、乃利松食品吉井商店を訪ね、吉井昌之代表に出来たての赤こんにゃくをみせてもらう。口に入れると歯応えがツルッとして、それ自体に味はない。普通のこんにゃくと同じだ。
着色法は時代によって変わってきた。1940年発行の『滋賀県八幡町史』には、古老の話として、トウキビの実の皮を煎じて着色したと書かれている。明治以降は食紅が使われた。ただ「食紅では1週間ほどで色が落ちてしまう」(吉井さん)。71年に滋賀のこんにゃく用にと食品添加物の三二酸化鉄の使用が認められ、現在まで使われている。体に影響は無いという。
他商品との差別化戦略か
なぜ赤く染めるようになったのか。滋賀の食を研究する市民グループ「滋賀の食事文化研究会」の中村紀子会長に尋ねると「諸説があり、どれももっともらしく思えます」との答えが返ってきた。
まず教えてくれたのが「織田信長説」だ。この地に安土城を築き、派手好きとされる信長が赤く染めるように命じたという。近江八幡市文化観光課の亀岡哲也課長補佐は「それを書き記した資料はありません」と残念そうだが、地元では真っ先に上がる。
別の由来にも信長が絡む。「左義長(さぎちょう)まつり説」がそれ。近江八幡に春の訪れを告げる左義長まつりはかつて、「安土城下で毎年正月に繰り広げられ、信長が華美な女装で躍り出た」という記録が残る。信長没後、豊臣秀次が八幡山城を築くと人々も移住して町を開き、祭りも持ち込んだとされる。
現在まで続く祭礼で目を引くのが山車に飾る紙。数メートルの竹ざおを立て赤い紙の束を取り付ける。「こんにゃくの赤は紙飾りにちなんだともいわれます」と亀岡さん。
続いて中村さんが披露してくれたのが「近江商人説」。近江八幡は近江商人発祥の地の1つであり、いまも商家の街並みが残る。「てんびん棒を担いで全国を巡った近江商人が、他の商品との違いを際立たせるために染めたという言い伝えです」