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歴史博士

伝説の後南朝 神器巡る悲劇、今に伝える 朝拝式(奈良県川上村) 古きを歩けば(18)

2012/2/7

■自天王暗殺の刺客討ち取る

遺品を拝礼する際には、口にサカキの葉をくわえるのがしきたりという

吉野に籠もる自天王のもとにあった勾玉に目を付けたのが、嘉吉の乱(1441年)で室町幕府から断絶処分を受けた赤松家の旧臣たちだった。彼らは勾玉奪還と引き換えに赤松家再興を幕府に願い出て、許可される。反幕府を装って自天王らに近づいた旧臣らは長禄元年(1457年)12月、瀧川寺(同県上北山村)にいた自天王と、神之谷(川上村)にいた弟の忠義王を襲って暗殺する。自天王はこの時、18歳だったという。

首級と勾玉を抱いて雪の山道を逃げる刺客を、自天王らに仕えた吉野の郷士が追跡。現在の川上村北塩谷付近で刺客を討ち取って首級を取り戻し、金剛寺に埋葬した。自天王兄弟を失った郷士の悲しみは深く、朝拝式を行ってしのぶようになったと伝えられている。

金剛寺境内にある自天親王神社。朝拝式はこの前で執り行われた

地元の伝承では自天王(北山宮、自天皇、尊秀王とも呼ばれる)と忠義王(河野宮とも)は「南朝第四代の後亀山天皇のひ孫」とされるが、実ははっきりしたことは分からない。当時の文献は極めて少なく、現存する史料のほとんどは伝説や伝承を江戸期にとりまとめたものとみられ、資料価値が高くないためだ。伝承も様々で、例えば金剛寺には自天王と忠義王の墓が並んで立っているが、自天王の墓は瀧川寺にもある。忠義王については「この時は難を逃れた」とする説もあり、こちらも川上村の別の場所にもう1つ墓がある。


宮内庁指定墓に異議貫く

明治期になると宮内省(現宮内庁)が、瀧川寺のものが自天王の墓で、金剛寺のものは忠義王の墓だと指定。川上村の人々の激しい抗議にもかかわらず指定を見直さなかったが、自天王のために祭祀(さいし)を長年続けたことに対して当時では大金の5000円を同村に下賜、沈静化を図ったという。ただ現在も、金剛寺の境内にある墓所には宮内庁による「河野宮墓」の標識とは別に、「南帝自天皇陵」と刻んだ立派な石標が地元の手によって立てられている。

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