555年前、深い雪に覆われた奈良・吉野の山中で後南朝の皇胤(こういん)、自天王が刺客の凶刃に倒れた。同県川上村の人々は毎年2月5日に、遺品を拝礼して霊を慰める「朝拝式」を途切れることなく執り行って悲劇を今に伝えている。
厳寒の拝礼式、途切れず555年
5日、険しい峰に囲まれた同村の金剛寺で555回目の朝拝式が執り行われた。自天王を祭った「自天親王神社」や自天王の墓所、重要文化財の兜(かぶと)やよろいなどの遺品を納めた収蔵庫がある境内には、菊の御紋が付いた天幕が張られる。裃(かみしも)姿の村民らは神社に参拝した後、厳かに収蔵庫の扉を開いた。遺品に息がかからないよう、口にサカキの葉をくわえるのがしきたりだ。式の趣旨を伝える「賀詞(よごと)」が朗々と読み上げられたのに続き、人々は遺品を、そして墓所を順に参拝し、深々と頭を下げた。
後南朝とは、2人の天皇が並立した南北朝の動乱が14世紀末にいったん収束した後も、北朝系と南朝系から交互に天皇が即位する約定が反故(ほご)にされたことに怒り抵抗を続けた南朝勢力を指す。嘉吉3年(1443年)には京都の御所を攻め、三種の神器の一つ「勾玉(まがたま)」を手にした。