継体帝の威光きらめく冠と沓
鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市) 古きを歩けば特別編・装い重ねて(5)
金メッキで輝く冠と沓(くつ)。亀甲文様が覆う表面には無数の針金が突き出し、その先端には楕円形や魚形をした銅の小片「歩揺(ほよう)」、絹糸でできた総(ふさ)飾り「菊綴(きくとじ)」や、ガラス小玉が飾られている。
■5世紀末から流行した冠
これらは鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市)で出土した金銅の冠と沓の精緻な復元品だ。古墳の傍らに立つ高島歴史民俗資料館に展示してある。琵琶湖の北西を流れる鴨川の辺で道路工事中、これら豪華な副葬品を多数納めた未盗掘の石棺が見つかったのは1902(明治35)年。墳丘長40メートル前後の前方後円墳で、6世紀前半の築造とみられている。
1923(大正12)年に京都帝国大(現京都大)が調査し、出土品は東京国立博物館と京都大が収蔵している。冠と沓の復元品は18年前、京都大が実施した再調査の成果をもとに制作された。
冠は両側頭部が山のように盛り上がるタイプで、人物埴輪(はにわ)にもよく表現されているという。「5世紀末から国内で流行した冠です」。再調査に参加した花園大の高橋克寿教授(考古学)はこう説明する。3本の角のようにそびえる冠の立飾りは、草花をかたどっているようだ。
「倭人」好みにデザインをアレンジ
沓を眺めると、装飾が足の裏にまで施されている。これでは履いては歩けない。「埋葬用の品」との見方がある一方、「儀式の際、足が付かないほど高い椅子に着座して履き、足をぶらぶらさせて歩揺をきらめかせた」という説もあるという。
復元はされていないが、同様に亀甲文様を刻み、歩揺などの装飾を施した半筒形の金属器2点も石棺に納めてあった。美豆良(みずら=束ねた髪を耳の横に垂らす男性の髪形)飾りだと推察されている。「冠や沓とセットで制作したのでしょう。工人は渡来人か倭(わ)人か分かりませんが、国内で制作されたと考えられています」。同資料館学芸員の白井忠雄さんが教えてくれた。「基本的なデザインは古代朝鮮半島の影響を受けていますが、倭人好みにアレンジされているようです」。
石棺は、大阪府と奈良県の府県境に位置する二上山で産した凝灰岩製。大陸や半島で作られたとみられる太刀や馬具、金製耳飾りなども出土している。遠隔地からわざわざ巨大な石材を搬入したことや、副葬品の豪華さと豊かな国際色は、墓が単なる地方の一有力者のものではないことを物語る。「副葬品はいずれも畿内の政権から授与されたものでは。被葬者は政権と密接な関係があったのでしょう」と高橋教授は話す。
東西と南北の交通路が交わるハブ
クローズアップされるのが継体天皇(在位507~531年)との関わり。高島市は出生の地といわれ、同古墳近くには父である彦主人王(ひこうしおう)の墓とされる田中王塚古墳(陵墓参考地)もある。継体天皇は幼少期に父を亡くして母の実家である越前(福井県)に移り、その地を統治していたが、先帝の武烈天皇の崩御に伴い諸豪族によって大王(天皇)に擁立されたとされる。ただ即位の経緯は謎に包まれている。「継体天皇の后に、この一帯の豪族・三尾氏の女性がいます。被葬者はその父か兄で、継体天皇の即位などの際に力を尽くしたのでは」。白井さんはこうにらむ。
高橋教授は「琵琶湖は古来、東西と南北の交通路が交わるハブ(結節点)でした。要衝の地にいた三尾氏は、大陸や半島との交易拠点だった若狭と、畿内とを橋渡しする重要な役割を果たしたと考えられます」と指摘する。
全国の古墳の副葬品の品ぞろえは500年ごろを境に、それ以前の鉄製の武具中心からきらびやかな装飾品へと変わる。「鉄製品が普及し、権威の象徴とはならなくなったためでは」(白井さん)、「新羅に圧迫された百済を支援する方向へ政権が舵(かじ)を切ったのにあわせ、百済のスタイルを取り入れた」(高橋教授)など様々な見方があるが、鴨稲荷山の主はこうした時代を映したモードに包まれて、湖の畔で永遠の眠りについたのだろう。
(文=編集委員 竹内義治、写真=葛西宇一郎)
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