木々植えた名奉行の思い継いで
古きを歩けば・花ものがたり 川路桜(奈良市)
古都・奈良の市街を流れる佐保川は、万葉集にも詠まれた由緒ある川だ。両岸約5キロにわたって伸びる桜並木は1000本ほどあり、毎年春になると、花のトンネルをくぐりに訪れる多くの人々でにぎわう。
■大伴家持らの歌碑が川沿いに点在
川の流れは若草山の北麓を回って奈良市街を東から西へ向かい、奈良市役所近くで南へと方向を変える。「佐保川の 清き河原に 鳴く千鳥 かはづと二つ 忘れかねつも」「千鳥鳴く 佐保の河門の 清き瀬を 馬うち渡し 何時か通はむ」。川沿いのあちこちに大伴家持らが詠んだ万葉歌碑が点在し、古都の散策コースの一つとなっている。
桜並木は、奈良市の船橋通り商店街の北にある下長慶橋から大和郡山市との市境付近まで堤上に延々と伸び、その規模は関西でも有数とされる。川沿いの遊歩道がJR関西本線と交わる踏切から少し東側に、川面へ大きく枝を張りだした老木が2本立っている。樹齢は160年を超えるという。幕末、奈良奉行を務めた川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~68)が植えさせたとされ、地元の人々は「川路桜」と呼び親しんでいる。
■ロシア使節とわたり合った幕末の俊英
聖謨は知性と誠実さを兼ね備えた俊英で、幕末の緊迫期に下級幕吏から勘定奉行にまで栄進。国境画定を迫るロシア使節プチャーチンとわたり合い、難問を巧みに処理して日露和親条約を締結したことで知られる。戊辰戦争での江戸開城に先立ち、幕府に殉じて短銃で自ら命を絶った彼について小説「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」で描いた吉村昭は、その後書きで「幕末に閃光(せんこう)のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物」と記している。
普請奉行を務めていた聖謨が奈良奉行に任ぜられたのは、彼が外交の表舞台に立つ約7年前の弘化3(1846)年。老中水野忠邦の失脚のあおりを受けて多くの幕府重職が左遷・解任された時期で、彼自身「左遷」と認識していたようだが、赴任すると精力的に職務に取りかかった。
博徒の取り締まりをはじめとする犯罪対策や裁判事務の迅速化を進める一方、官民の拠出による貧民・病人の救済事業や、墨や武具など地場産業の振興にも注力。変わったところでは陵墓に関心を持ち、与力らを使って資料を渉猟して、所在不明とされた神武天皇陵に関する論考を著したり、盗掘者を取り締まったりしている。
そんな彼を奈良の人々は「五泣百笑の奉行」と称し、慕った。泣く「五」とは博徒、厳しく監督される役人、裁判期間が短縮化されたために滞在客が減った公事宿(裁判関連の宿泊施設)などを指し、笑う「百」とは百姓を指す。5年余りにわたった奈良奉行職を離れて奈良をたつ時、何百人もが涙ながらに見送ったという。
植林50万本、住民運動促し景観整備も
熱心に取り組んだ施策の一つが植林・植樹だった。奉行所付属の山が乱伐で荒れているのを見て植林に踏み切り、その数は50万本にも及んだとされる。また町の人々に呼びかけて、住民運動の形で古都の景観整備を推進。幅広く募金や寄付を募り、東大寺・興福寺を中心に数千本の桜やカエデを植樹した。佐保川沿いの桜もこの時、植えられたものだ。
その経緯を記した石碑「植桜楓之碑」が猿沢池近くに立つ。人々に求められて聖謨自らが揮毫(きごう)し、こう記している。「歳月の久しき、桜や楓(カエデ)や枯槁(ここう)の憂い無きあたわず。後人の若し能く之れを補えば、則ち今日の遊観の楽しき、以て百世を閲みして替えざるべし。此れ又余の後人に望むところなり」。桜やカエデはいつか枯れるが、後世の人々が植樹して補ってくれれば、いつまでも楽しめる。それが私の望みだ――と。
聖謨の思いを継ぎ、佐保川沿いの住民は桜を守り、育て続けている。川路桜がある地区では有志が「佐保川・川路桜保存会」を組織し、16年前から川の清掃や桜並木の手入れ、植樹などに取り組む。「メンバーも徐々に増え、現在は約30人。地元だけではなく遠くからも参加してくれ、和気あいあいとやっています。花を見に来る皆に喜んでもらうのが一番です」。代表世話人の田中正信さんはこう話し、川辺に昨年植えた桜の苗木を見守る。
文=編集委員 竹内義治、写真=尾城徹雄
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