平城宮に甦った"日本庭園の原型"
東院庭園(奈良市) 古きを歩けば特別編・庭を巡る(1)
奈良市の平城宮跡の南東隅に、8世紀(奈良時代)の庭園が復元されている。自然の風景をモチーフとする日本庭園の原型とされる国特別名勝、東院庭園だ。
中心にあるのは、小石を敷き詰めた浅い池。底から岸まで緩やかに立ち上がる州浜が、岸を巡る。平面形は複雑なカーブが連続し、岬の先端には景石が置かれている。石組みの流路「曲水」の辺に立つと、ここで供宴や儀式に興じた古代の貴人らの姿がしのばれる。
復元の際には遺構を保護するため、10~40センチの厚さで石や土を盛って当時の姿を再現したという。ただし景石や、池の北端にある人工の山「築山」は、表面を合成樹脂で強化した実物が露出展示してある。
水面に張り出す露台を備えた檜皮葺(ひわだぶき)建築をはじめ池辺の施設群は、法隆寺にあった堂宇などをもとに復元。庭園に茂るアカマツやウメなどの植栽は、池底の堆積土から採取した花粉や種の分析結果や、万葉集といった文献の描写から推定復元された。
遷都で庭園デザイン一変
「平城遷都と軌を一にして、庭園のデザインも7世紀(飛鳥時代)とは一変しました」。奈良文化財研究所の小野健吉・文化遺産部長(庭園史)はこう説明する。
飛鳥の宮廷庭園の池は百済のデザインと技術が取り入れられ、方形など幾何学的な平面形で、護岸は垂直に立ち上がる石組みだった。百済から渡来した技術者が造園を手がけた"直輸入"の可能性があるとみられている。
663年、白村江の戦いに敗れた古代日本は、唐の制度や文化を導入して国家体制を整え、国力増強に努めた。中国の古い教典に基づいて日本最初の都城、藤原京を造営したのもその一環だ。しかし702年、およそ40年ぶりに遣唐使が本格再開されると、藤原京の姿が実は長安とは大きく異なることが判明。改めて長安をモデルにした平城京の建設が進められ、藤原京はわずか16年の短命に終わった。
平城遷都に合わせて庭園も唐風となるが、飛鳥時代のスタイルを早々に脱却した背景について「藤原京の都市プランと似た事情があったのでは」と小野部長は推察している。「朝鮮半島を通じて隋や唐の最先端の庭園デザインを取り入れたつもりだったのに、遣唐使が持ち帰った情報を見て、まるで違うと気付いたのでは」。
ただ唐の単なるコピーではなかったという。唐では同じサイズの卵形の石を岸辺に敷き詰めるのに対し、日本は大きさのばらついた石を州浜に敷くといった違いがあるなど、「自然の風景をイメージした独自のディテールが最初から盛り込まれていました」(小野部長)。
6回建て替え、天皇の私的な空間か
ちなみに東院とは、平城宮の東側の出っ張り部分のこと。かつて平城宮は正方形と考えられていたが、45年前に東院庭園の遺構が見つかり、左右非対称と判明した。ここには皇太子の邸宅や天皇の供宴施設があったと推察されているが、発掘された範囲は庭園など一部に限られ、同研究所の渡辺晃宏・史料研究室長(古代史)によると「平城宮に残された未解明の中枢部分」だという。
同研究所は2006年から東院地区の発掘に取り組んでおり、少しずつ実態が明らかになってきた。水瓶や皿などの大量の食器類や、塩や魚といった食料品を請求した木簡が出土。貴人たちの宴を支えた保管庫などがあった様子が浮かび上がっている。
奈良時代を通じて少なくとも6回、大がかりに建物の建て替えや配置換えを行ったことも分かった。渡辺室長は「天皇が代わるたび、使いやすいよう大改変したようです。宮内にあった天皇の居所『内裏』より、さらに私的な空間だったのでしょう」と説明する。
東院庭園も8世紀後半に大改修された跡があり、池の平面形が複雑化し、完成度を増した。復元されているのは、この改修後の姿だ。「デザイン感覚の発展ぶりが分かります。その後につながる日本庭園のスタイルが完成したのは奈良時代なのです」。小野部長はこう話す。
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関西に残る庭園を巡り、日本人が育んできた美意識の系譜をたどる。
(文=編集委員 竹内義治、写真=伊藤航)
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